日々雑感~広陵高校の不祥事を考察する Part2
Part1からの続きです。
今回の不祥事への対応で、さらに問題とされるべきは高野連などの関係団体の対応です。
本件が1月時点に発覚したにもかかわらず、広島の高野連は広陵高校側の報告を鵜呑みにした形で、厳重注意という、実質的に何の処分にもならない対応をしたわけですが、それこそが今の高校スポーツ界の不健全さの表れであり、その結果、重大な人権侵害やそれを引き起こす部活の病巣のようなものがが見過ごされるのであれば、高野連はいったい誰のためにあるのか、その存在意義が問われても致し方ないと思います。
そもそも、曖昧でなあなあな処分を決めた広島の高野連の副会長が広陵高校の校長であるということ自体、処分の公正さについても、組織が正常に機能しているか否かについても、重大な疑義を生じさせます。
特に本件の場合、被害者の言い分と食い違う内容での報告がなされているわけで、広陵高校の校長はそのことを知らなかったはずはないので、少なくとも被害者の言い分と両論併記で高野連側に報告することはできたはずです(もちろん、件の報告書が本物で、加害生徒から聞き取った内容が書かれていたというのであれば、虚偽報告の責任はより重大です)。
しかし、広陵高校の校長(兼高野連副会長)は、それすらしないで野球部の活動に有利になるような報告を行い、その結果、広島の高野連が春季大会、夏の予選への出場に支障のない処分で済ませたわけですから、高野連の自浄能力に疑問符が付くのは当然のことといえます。
調べてみると、地域の高野連は、地域の有力校の指導者らによって構成されているようであり、となるとこの種の事案については、明日は我が身で自ずと身内庇い的になったり、有力校や強い発言権を持つ理事らに配慮した不公正な結論になることは、今回に限らず、十分に起こり得ることかもしれません。
となると、高野連という組織自体が、その役目を忘れ、形骸化している可能性も否定できませんし、高野連の組織運営のあり方そのものが問い直される必要があります。
たとえば、不祥事の調査や処分の判断の過程については、有力校や強い発言権を持つ理事の影響を排除し、中立な外部の委員を入れて一定の強い調査権限を与え、独立した調査と審査が保障されるような仕組みを作ることや、そこでの調査結果や処分に関する意見が尊重されるようにしておくことは必須でしょう(もちろん、一方で、責任の取り方が旧態依然たる連帯責任になっているのも時代錯誤であり、より柔軟な対応が検討されるべきですが、逆に事実を隠蔽したり、矮小化した場合はより厳しい処分にすることも検討されるべきでしょう)。
仮に、そうした改革すらできないというのであれば、高野連の自浄作用には期待できないことになるので、スポーツ裁判所のような外部組織によって、不祥事に関する申立について調査、判断するというような制度を構築していくべきと思います(医療事故については医療事故調査制度というのがありますが、似たような枠組みにするのがよいかもしれません)。
とにかく、今回の事件は、今の高校野球が非常に根深い問題を抱えているのではないかという疑念を社会に知らしめました。
サッカーに押され気味とはいっても、野球はアマチュアからプロに至るまでに様々な利害が絡んでいる巨大ビジネスの領域です。
中でも高校野球は、甲子園に出て活躍することが、選手のみならず、指導者、学校にとってもメリットが大きく、学校によっては至上命題となるため、それだけに、彼らにとって甲子園に出るうえで不都合な不祥事は表沙汰にしたくないという動機が働きやすくなります。
しかし、起きた不正を正さず、不正の温床を見て見ぬふりをして野放しにしてしまえば高校野球に未来はないし、そうなるか否かは、ここできちんとした改革を実施できるかどうかにかかっているといっても過言ではありません。
自浄作用ということでいえば、共催に名を連ねる朝日新聞、毎日新聞の責任も重大です。
今回の問題でも両社の報道は及び腰という印象を強く受けました。
組織の不正に切り込んで真実を報じる公器としての責任を負っているマスコミが、自社の利害に絡む局面になると途端に控えめになってしまうというシーンはフジテレビの時にもありましたが、本当に情けなく、強い憤りを覚えます。
主催者側であればこそ、なおのこと襟を正して、踏み込んだ調査と報道を行うべきだし、それすらできないというのなら両新聞社とも高校野球からさっさと手を引くべきです。
甲子園を夢見る青少年が大人の都合や思惑で食い物にされ、不当な扱いを受けることを放置してはならないし、巨大な利権が絡むからこそ、覚悟を持って真相解明と改革がなされるべきです。
元野球少年として、高校野球が原点に戻って子供たちの夢見るに相応しい場所になることを心から願ってやみません。
日々雑感~広陵高校の不祥事を考察する Part1
私が子供の頃のことですが、当時、広陵高校に宇根という投手がいて、甲子園で大活躍しました(確か、準優勝したと思います)。
それからしばらくすると、今度は佐伯という投手が出てきて彼も甲子園で活躍します。
佐伯投手の名前は私と同じ和司なのですごく親近感を覚えたものです。
後に佐伯投手は広島カープに入団し、1975年には三本柱の一人としてカープの初優勝に貢献していますので、なおさら記憶に残っています。
その後、広陵高校は全国的に有名な強豪校になったわけですが、今その広陵高校で大変な不祥事が起きており、大きな社会問題になっています。
特に、今の時代は良くも悪くもインターネットで情報が瞬く間に拡散しますので、広陵高校や高野連の対応に不可解な点があったこともあり、騒動は収まるばかりか憶測的な情報の拡散もあって、事態の収拾が図れない状況が続いています。
しかし、知れば知るほどこの問題の根は深いように思えますし、複雑に利害が絡み合っており、立場によって捉え方が異なってくるところもある問題ですので、広島出身の元野球少年(の弁護士)としてこの問題を取り上げ、考察してみたいと思います。
まず、不祥事が大きな社会問題となった時点で広陵高校はSNSの被害者であるがごとき言い訳をして出場辞退を発表しましたが、それは本質から目を逸らすための弁解にしか聞こえず、危機管理としては非常に拙い対応だと感じました。
辞退直後の保護者会で誰からも質問が出なかったとのことですが、普通であれば今回の問題で子を預ける親が学校側に問いを投げかけないはずはないわけで、にもかかわらず、質問さえ出ないということ自体、かえって問題の闇の深さ、気持ち悪さを感じさせます。
今回の発端となった件では、被害者が述べている事実と高校側の高野連に対する報告に大きな食い違いがありますので、いったい何が起きていたのか、まず何よりもその点について真実が明らかにされなくてはなりません。
被害者の主張どおりであれば、寮の中で明らかに許容範囲を超えた犯罪的行為があったことになり、しかも野球部の指導者や学校側が事件を隠蔽もしくは矮小化したことになりますから、ことは極めて重大といえます。
この点については、被害者側からネット上に流出したと思われる学校作成の報告書なるものがあり、この報告書の評価が重要なポイントになるのではないかと思います。
学校側も、被害者側に報告書を渡したことは認めていますので、もしネット上に流出した報告書が本物ということであれば、被害者側の言い分を否定する学校側の主張には重大な疑義が生じます。
ネット上に流出した報告書を読んでみたところ、黒塗り部分はあるものの、中身を見ると事実の記載のされ方に特徴があります。
それは聞き取った事実経過の記述の箇所で、「した」という表現と「された」という表現が使い分けられて記載されているという点で、その違いには大きな意味があるように感じます。
なぜなら、「した」という表現は加害者側から聞き取った事実、「された」という表現は被害者の主張事実と読むのが自然だからです。
具体的に見ると、「した」という記述は、たとえば、「蹴り出した」「次々と手を出した」「ビンタもした」等、執拗な暴力が繰り返されたことを示すものとなっており、全体としては被害者の主張に近い内容になっています。
実際の文章では、「した」と「された」が混在して一体化した部分も多いので、学校側も被害者の言い分が正しいと評価したのではないかとの印象もありますし、暴力に関わった生徒の人数も8人とか9人が関わっていたと書かれており、こちらについても被害者側の言い分に近くなっています。
仮にこの報告書が本物ということであれば、加害生徒の中に、被害者の言い分を認めた人物がおり(しかも複数いそうです)、それを学校側が確認していることになるので、となるとその後の学校側の対応には重大な疑問が生じます。
加害生徒から聞き取ったうえで作成した報告書を被害者側に交付しながら、それと明らかに異なる、事態を矮小化した内容の報告を高野連に提出したということになるからです。
もしそうであれば、加害生徒の違法行為以上に、事実を矮小化し、被害生徒を救済せず、高野連に虚偽報告をするという学校側の姿勢こそが極めて重大な問題としてクローズアップされなくてはなりません。
現在、学校側は、表向き、監督を交代させつつ、第三者による調査を実施すると発表していますが、「第三者」による調査とは、弁護士会などの、学校の影響を受けない公正中立な第三者が主導する形での「第三者委員会」でなくては意味がありません(この手の不祥事でいつも問題になりますが、もし広陵高校がいうところの第三者が形ばかりのものであれば、事態の鎮静化どころか、裏目に出ることは避けられないように思います)。
また、第三者委員会による調査、検証の対象は、表に出た個々の事件のみでは不十分です。
今回の経過を見ていると、本件以前からの悪しき伝統のような実態があったのではと指摘されていますので、そうした背景事情も調査対象に含まれなくてはなりませんし(実際、過去の暴力案件の情報も出ていますし、本件を機に注目された広陵高校出身の金本知憲氏の著書でもには、同様のリンチのようなものを受けていた旨の記述がありますから、当然メスを入れる必要があります)、事件発覚後の指導者や学校側の対応の適否も調査の対象とされなくてはなりません。
この点、辞退の際の校長の発言やその後の対応をみていると、時間稼ぎをして嵐が過ぎるのを待っているようにも見えますが、問題の先送り、中途半端な対応は広陵高校にとって学校自体の存続すら危ぶまれる事態にすらなりかねません。
なぜなら、高校野球の全国大会は毎年春と夏に開催されるわけで、そのたびごとにこの問題が蒸し返されることは避けられないからです。
もっとも、広陵高校にとってのトータルな利益と現在の上層部、指導者たちの利益は必ずしも一致しない可能性があるので、この先もどう進むかは予断を許しませんが、大局的な見地で事件の背景も含めた真相が徹底的に明らかにされる必要があります(それができずに衰退した野球名門校の例もあります)。
もし、その結果、一部で言われているように、この問題が偶発的な事象でなく、部内、寮内で繰り返されてきた悪しき伝統ということであれば、指導者に対する厳重な処分はもちろん、野球部の休部や廃部も当然視野に入れざるを得ないでしょうが、徹底した真相解明ととことん膿を出し切るという覚悟を持って事態に臨むことが、広陵高校にとって唯一の再生への道であり、まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」なのだと思います。
長くなりましたので、Part2に続きます。
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart2
Part1に続き、原爆が広島や長崎に投下された経緯について書いてみたいと思います。
原爆投下に至る経過については、Part1でも触れましたが、投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのが1945年4月、爆発実験の実施、成功が同年7月、広島への原爆投下は8月6日と、戦争の末期ですでに戦後処理について、連合国側で駆け引きが繰り返される中での極めて短期間の政治決定でした。
ご存じの方もおられるかもしれませんが、その中で、同年6月にアメリカの高名な科学者たちが作成し、大統領諮問委員会に提出した「フランク・レポート」と呼ばれるものがあります。
この「フランク・レポート」の中で、彼らは「日本への原爆投下を思いとどまるべきだ」という提言をしています。
しかし、その提言は採用されることなく当時の大統領であるトルーマンは原爆投下を決定します。
この背景に何があったかですが、その一つとして指摘されているのはトルーマンは黄色人種に強い偏見を持っていたということです。実際、彼は「けだものと接するときはけだものとして扱うしかない」(ここでいうけだものとは日本人のことを意味しているそうです)と手紙に記しています(ほかにも、戦後、トルーマンは原爆投下に関するファイルに「ジャップ爆弾事件」という差別的なタイトルをつけていたそうです)。
また、もう一つ見逃せないのが、戦後にアメリカのエネルギー省によって作成されたレポートです。それによると、第二次世界大戦当時のアメリカ政府は、広島、長崎への原爆投下を「実験」として位置づけています(もっとも、「実験」という記載はその後用いられなくなります。さすがにまずいと考えたのかもしれませんが)。この実験という言葉の意味ですが、普通に読めば、広島、長崎への原爆投下は、人類史上初めて作られた核兵器の実際の威力、環境への影響を検証するための行為だったと解釈されます(トルーマン自身、原爆投下後に「実験は大成功だった」と述べていたという話もあります)。
実際、アメリカは終戦後すぐに広島長崎に入り、以後、現地において非常に詳細な調査を行っています。原爆症認定訴訟の中で私たちが裁判所の手続で入手した放射線影響研究所(放影研)のレポートは、戦後のアメリカによる調査の資料を引き継いで保管していたものですが、その調査記録は、個々の被爆者に関する被爆当時の状況から被爆後の健康状態に関する追跡調査も含め、驚くほど詳細なものとなっていました。原爆投下直後からこのような詳細な調査が行われていたことは、広島、長崎への原爆投下が、まさに「実験」だったことを示しています(さらに、戦後のアメリカによる被爆者に対する調査は、放射線の影響を「研究」するためのもので、被爆者の放射線被害に対する治療は原則として行っておらず、2017年になって、放影研はそのことを公的に謝罪しています)。
ただ、振り返って考えてみると、もしアメリカにとっての当時の敵国が日本ではなく、ドイツ、イタリアであったなら、この「実験」は行われなかったのではないでしょうか。
トルーマンが根深い人種的偏見を持っていたことが、「黄色人種相手なら、無差別殺戮となるような実験を行っても構わない」との発想となり、「フランク・レポート」のような原爆投下に反対する意見があったにもかかわらず、それに耳を貸さず、究極の大量殺戮兵器である原爆を広島と長崎に投下するという決断へとつながったともいえるのではないでしょうか。
ところで、原爆投下を止めるようにと提言した「フランク・レポート」の中には、他にも注視すべき重要な記述があります。
まず、同レポートでは「原爆の情報をアメリカが独占するのではなく、オープンにして国際管理を進めるべきだ」という提言がなされており、その理由として、科学者たちは、「科学技術の独占は極めて困難なので、結局のところ、いつか敵国にも共有されることになる。それならば先手を打ってソ連などが開発できていない現時点で、仲間に引き込んでしまって、世界でこの兵器を管理してしまうほうが現実的だ」と主張します。
さらに示唆的なのは、「デモンストレーションであれ実戦使用であれ、原爆をいったん使用したらその時から原爆開発・軍拡競争が始まる。世界の各国はあらゆる資源と技術をためしてより威力のある原爆をより効率的に安価に数多く作ることに取り組む。さもなければ、自国を守れないからだ」との記述です。
まさに、この「フランク・レポート」を作成した科学者が予期し、危惧したことが、今、この地球上で起きている現実となっているわけです。
振り返ってみれば、もしあの時のトルーマンが、この「フランク・レポート」をきちんと受け止め、自身の偏見に囚われず、核兵器のもたらす未来に関する洞察力や大局的な視点あるいは他者の指摘に耳を貸す謙虚さを持つ指導者であったならば、核兵器開発競争に明け暮れ、核抑止力と称して脅しを掛け合うような未来ではなく、もっと融和的な異なった世界が築けたのではという気がしてなりません。
指導者の選択も含め、人は時として誤った道を選びます。しかし、そこであきらめず、おかしいことに対しては声を上げ、変えていく努力をするしかないわけで、今からでも遅くないと信じ、「フランク・レポートで述べられているような仕組みを作るために人類の叡智を結集しなくてはならない」、被団協のノーベル平和賞受賞の報に接して、あらためて痛切にそう考えています。
いつの時代であれ、その時代を生きている私たちには、目の前の現実に囚われず、次の世代のために理想を求めることを忘れず生きていく責任があるからです。
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart1
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会。以下、「被団協」といいます)が今年のノーベル平和賞を受賞することになりました。
そのこと自体は、本当に称賛されるべきと思いますし、広島で生まれ育った被爆二世であり、原爆症認定訴訟にも関わった私にとっても感慨深いものがあります。
被団協の長年にわたる活動は、後遺症に苦しむ被爆者に対する救済にとどまらず、被爆の実相を広く訴え続けたことが世界の反核兵器活動に与えた影響は大きいといえますし、今や「被爆者」という言葉は、「ヒバクシャ」あるいは「Hibakusha」と表記されるようになり、「ノーモアヒバクシャ」という反戦の叫びは世界に広まってもいます。
原爆症認定訴訟において、国側は政府も被爆者救済に尽力してきたというような主張をしていましたが、実際は逆で、消極的な国の姿勢に対し、被団協をはじめとする様々な人たちの粘り強い運動によって被爆者援護法による救済の仕組みが実現され、被爆の実相が広く社会に知られるようになって行ったというのが本当のところです(このあたりの被爆者の人たちの苦闘の歴史については、広島の産婦人科医である河野美代子さんという方のブログ記事が詳しいので、興味のある方はぜひお読みいただければと思います)。
唯一の被爆国の政府が、未だに被爆の実相から目を背け、核兵器廃絶に後ろ向きの姿勢を持ち続けていることは本当に情けなく恥ずかしいことですが、そこに抗い、闘い続け、国際社会にも核兵器の恐ろしさを訴え続けてきた被団協の活動は、人類の歴史上において最も意味のある社会運動の一つだと思いますし、今回のノーベル平和賞はその活動の意義が評価されたもので受賞に相応しいと思います。
しかし、なぜ今このタイミングで被団協がノーベル平和賞を受賞したのかを考えると、その受賞を手放しで喜ぶことはできません。
なぜならば、ノーベル平和賞はその時々の世界情勢を反映する傾向があるといわれていますが、第二次世界大戦後、今ほど核戦争の危機が身近に迫ったことはなく、今回の受賞にはそれが影響しているのかもしれないからです。
実際、今の世界情勢を見ると、ウクライナを侵攻したロシアのプーチン大統領は平然と核兵器使用の可能性に言及していますし、中東情勢も混とんとしており、イスラエルのガザ侵攻はその後レバノンへの侵攻、無差別攻撃、イランとの間でも双方が爆撃を繰り返すなど、中東全体に広がってさらにエスカレートしており、根っこに宗教的価値観の対立があるだけに、いずれかが壊滅的な被害を受けるような状況に陥れば、対抗手段として核兵器が放たれる可能性は否定できないし、その危険性は日に日に高まっているのではないでしょうか。
さらには、アメリカでトランプ大統領が誕生することが決まりました。差別や偏見を声高に語り、分断、対立を煽るトランプのような人物が大統領になれば、それこそ何かの弾みで核兵器が使用されるのではないか、さらには彼が日ごろからロシアやイスラエル寄りの発言をしていることからして、ロシアやイスラエルの核兵器使用が容認されてしまうのではないかとの危惧も拭えません。
こうした核兵器の使用の危険性の高まりについて現実的にはピンとこないというか他人事のように感じる人もおられるかもしれませんが、歴史を振り返ってみれば、かつての広島、長崎への原爆投下も、当時の愚かな指導者の、自身の持っている偏見と当時の世界情勢への近視眼的な考え方が合わさって決定された面があり、非常に短絡的な政策決定であったといえます。
詳しくはPart2で述べますが、時系列でみても、原爆投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのは1945年4月、爆発実験の成功は同年7月、そして広島への原爆投下は8月6日であり、極めて短期間の政治決定だったことは明らかです。
私たちは、常に過去の歴史を教訓にしながら未来を考えて行かなくてはなりませんが、人類を破滅に導きかねず、また戦争を仕掛ける国が他国を威嚇する手段としてもてあそんでいるともいえる核兵器の問題を考えるうえで、広島、長崎への原爆投下がどのように決定されたか、その歴史にきちんと目を向けておくべきだとあらためて強く思います。
その意味では、昨年話題になった「オッペンハイマー」という映画は、原爆を投下した側のアメリカで作られたものとしてはタブーに踏み込んだ作品といえるかもしれませんが、オッペンハイマー自身の内心の苦悩を中心とした描写に偏っていて、なぜあの時原爆が広島や長崎に投下されたのかという最も描かれるべき歴史の深層に切り込んだ作品にはなってはいません(そこがハリウッド映画の限界といえるかもしれませんが)。
Part2では、そのことを取り上げてみます。
日々雑感~小林製薬の「紅麹」の問題
小林製薬が生産した「紅麹」による腎機能障害の問題は、死者、感染者数も日を追って増え、さらに計170社もの企業に他の企業にも小林製薬が生産した紅麹が提供されており、今後の影響がどうなるか予断を許さず、底なしの様相を見せています。
この事件のニュースに触れて、いくつか考えてみたこともありますので、ここで取り上げてみます。
そもそも、腎臓は体内で産生、吸収された代謝産物,化学物質,薬剤等を濃縮し,排泄する、小さいながら非常に重要な臓器ですが、それだけに薬剤等の影響で腎障害をきたしやすいというリスクを抱えています。
事件の関係で調べたこともありますが、薬剤等の影響で腎障害をきたしやすい理由については、腎臓への血流量が豊富なため(心拍出量の25%程度といわれてるそうです)、薬物も当然多く流入してしまうであるとか、メカニズム的に薬物が上皮細胞に取り込まれやすい仕組みがあり、構造的にも薬物の濃度が上昇して毒性域に到達しやすい等、薬物の影響で腎障害が誘発されやすいといった機序があるということです。
実際、小林製薬の事件では、急性尿細管間質性腎炎に罹患されているとの報道がありますが、薬剤性の腎機能障害の約半数は急性尿細管間質性腎炎という病態を示すそうです。
実は、当事務所で扱っている事件でこれから提訴予定の症例の中に、抗菌薬の選択を誤ったために急性の腎不全をきたして亡くなられたという医療事故があります。
同症例では、バンコマイシンとゲンタマイシンの組み合わせによって、腎障害の増悪を招く副作用が助長され、約20日の連続投与で末期的な急性腎不全をきたすに至ったのですが、事程左様に、薬剤性腎障害はまさに命に関わる重大な病態といえるわけです。
ところで、小林製薬の問題では、事実経過が徐々に明らかになっている途中で、まだはっきりしない点が多くありますが、問題の紅麹が生産された大阪の工場が昨年12月に閉鎖されたとのことです。
また、当該の紅麹ですが、ここにきて、その中から「プベルル酸」が検出されたという報道が出てきました。聞き慣れない名前ですが、どうやら青かびから産生されるもののようです。
もっとも、小林製薬はずっと未知の物質であるがごとき発表をしており、「プベルル酸」との特定は厚労省の発表で出てきたものですから、小林製薬の情報開示の姿勢にはやはり疑念があります(今年2月頃には株価が暴落したという報道もあり、インサイダーではないかとの声も上がっており、疑問は尽きません)。
ちょっと話を戻しますと、今回の報道を見ているうちに、当事務所で扱っている別の医療事件とちょっと状況が似ているところがあると思い至りました。
その事件というのは、白内障の手術後に感染性眼内炎を発症したという症例に関するものですが、実は、当事務所の依頼者以外にも、同じ日に白内障手術を受けた人に感染性眼内炎を発症した人が複数いたことから、手術との関連が疑われたのです。
あとになって、患者の感染の起因菌が、実はは真菌、つまりカビ菌だったことが明らかになるのですが、当該眼科の手術室の壁の巾木から真菌が検出されていたのです。
つまりは、手術室が不衛生であったため、カビ菌が繁殖して何らかの形で患者に感染したという機序が明らかとなったわけです。
小林製薬の事件の起因物質がカビに由来するものであることからすると、上記の事件と同じく、生産現場が不衛生なために紅麹の生産過程で青かびあるいはそこからできた「プベルル酸」が入り込み、増殖した可能性が考えられます。
青かびは湿気が高く、空気が澱むような場所であればどこでも発生するからです。
とすると、大阪工場の閉鎖が問題の発覚に近接した時期である去年12月だったことは、もしかすると証拠隠滅なのではないかと疑われても仕方のないところといえます。
生産現場が不衛生であったか否か、青かびが繁殖していたか否かは、現場を検証すれば明らかになる可能性があるのに、肝心の工場が閉鎖されてしまっては、その検証は容易でなくなるからです。
もちろん、まだまだわからないことだらけです。
「プベルル酸」はかなり毒性の強い物質のようですが、腎機能への影響についてはまだはっきりしない点があるとのことですし、青かびから「プベルル酸」が生成される機序の解明もまだだからです。
しかし、あらためて考えてみると、継続的に摂取されることの多いサプリの人体への影響は決して軽視できないものです。
今日日、猫も杓子も、健康のためにサプリを摂取するのが当たり前になっていますが、その安全性についてはわからないことが多いというだけでなく、実質的には野放しの状態といっても過言ではありません。
特に、今回の小林製薬の商品は、機能性表示食品と、もっともらしくカテゴライズされていますが、早い話、当該企業の自主申告(届出のみ)でそのように謳えるわけで、公的な機関による審査がなされないわけですからなおさらです(ちなみに、この機能性表示食品も安倍政権の時に認められたものです)。
私たち消費者が流通する情報を鵜呑みにせず賢くならなくてはならないことはそのとおりですが、健康や命に関わる食品やサプリ、飲料等の安全性のチェックが公的な形で担保される仕組みは必須なのだとあらためて痛感します。




















