事務所トピックス

医療事件日記~研修医による医療事故Part2

葵法律事務所

前回から続きます。

研修医が初歩的なミスを犯し、それを指導医がきちんと指導できていない、そんな医療現場で重大な医療事故が増えてきているのはいったいなぜなのでしょうか。
色々調べたり、話を伺ってみると、たまたまということではなく、増えることになった背景的な事情があるのではないかということに思い至ります。
すなわち、これはある臨床医から伺ったことでもあり、医療関係者が書かれた文献でも目にしたことですが、いろんな背景事情によって、医療機関が研修のためというよりも、現場の戦力として研修医を雇うようになっているという面があるのではないかということです。

今の医療の現状を見ると、たとえば、国の政策で医療費が削減され、医療機関が赤字になっているという現実もあり、また、医師の研修制度の問題で、一定の経験を有する医師を市中の医療機関が確保するのが難しくなっているという事情もあるのだそうです。
その結果、本来であれば、一定のキャリアを有する医師が配置されるべき場所に、経験の少ない研修医をあてがってしまっているわけで、それでも、指導医がしっかり指導、助言できるようになっていればよいですが、患者の側からすると、そうなっているかどうかなんて知る術はないのですから、空恐ろしい限りです。
腰椎穿刺のミスのケースでは、当該研修医は、それまで一度も腰椎穿刺をやったことがないそうで、それで髄液採取まで7回も穿刺を繰り返したというのだから、まるでモルモットかといいたくなるような信じがたい話です。
また、これもちょっと前に県内のベテランの医師の方に聞いたことですが、神奈川県内のある地域の基幹病院では、夜間の救急対応はすべて研修医に対応させているそうです。
当該医師いわく、そのエリアで救急車を呼んでもらうことがあっても、絶対に別の病院にしたほうがいいとのことでしたが、もはやシャレになりません。
実際、思うのですが、何度も何度も穿刺に失敗している間、もし指導医がそばにいたら、「これ以上は危険」となって途中で手技を交代するでしょうし、多数回の穿刺の危険性を知っていれば、術後管理は当然厳重にと考えるはずなのに、いずれの症例も、術後に明らかな異常が起きているのに、そこにも指導医が関与した形跡はありませんでした。

となると、研修医のミスは、本当は誰のミスなのでしょうか?
それは、指導医のミスであり、さらにいえば、研修医に危険性の伴う医療行為をスルーでやらせてしまっている医療機関の構造的なミスと評価されるべきだと思うのです。
前に、お世話になった医師から、研修医の医療事故を起こした病院のことで相談に行ったとき、たまたまその病院で研修医がひどい目に遭っている実情を承知しておられ、あの病院ではまともな指導が受けられないから、研修医を派遣できないと憤っておっしゃっておられました。
研修医を育てるのではなく、安易に戦力として扱うだけの病院では、研修医のためにならないということのようでしたが、本当にその通りだと思います。

医療事故を扱っていて思うのは、患者側で扱っていて感じたこと、気づいたことを医療側にフィードバックしないといけない、時には制度のあり方についても物申さなければならないということです。
まさに研修医制度のあり方が見直されなくてはならないのだと思います。

とりあえず、二つ提案があるので、書いておきます。
一つは、研修医には名札に何年目の研修医かを明記してもらい。患者が不安を感じたら、指導医の対応を求められるようにするということです。
病院側にとっては煩わしいことかもしれませんが、患者が疑問を感じたときに、声を上げられるようになるので、間違いなく医療事故の防止につながると思います。
もう一つは、すべての医療機関に、ラピッドレスポンスチームなるものを設置するということです。
これは、前に助言いただいた医師から教わったことですが、指導医がきちんと助言してくれない場合、あるいは、指導医の指示が間違っているのではと若い医師が疑問を持った場合に、科の枠を超えて、横断的に相談できるようなチームが院内に設けられていれば、研修医がそこに駆け込むことによって、医療事故の防止につながります。
検討していただければと思います。

それと、最後に医療側に強く訴えたいのは、研修医にとっても、スタートのところで、きちんとした指導を受けられず、重大な医療事故を起こしてしまうと、真面目な医療者ほどトラウマになって、その後の医師としての人生が大きく狂ってしまいかねないということで、実際に、事故を起こした研修医の方から、そのような体験談を伺ったこともあります。
医療事故は、患者だけでなく、医師にとっても大きなダメージとなるのです。

ここで取り上げた研修医による事故は、いずれも初歩的なミスで、また、いずれも指導医が目を配って普通に気を付けていれば、避けられるか、リカバーできたはずのものばかりです。
それだけに、この種の事故をいかにして無くすか、しっかりと知恵を絞って良い医療を実現していかなくてはと強く思う次第です。

2024年02月16日 > トピックス, 医療事件日記

医療事件日記~研修医による医療事故Part1

葵法律事務所

これまでにも、個別の医療事故の中で何度か取り上げたことがありますが、今日は研修医による医療過誤の問題について、あらためて正面から取り上げてみたいと思います。

なぜ研修医による医療事故について正面から取り上げることにしたかと申しますと、それは、ここのところで当事務所で扱っている複数の医療事故、あるいは比較的最近解決した医療事故を分析してみると、研修医による医療事故の割合が非常に高いということにあらためて気づいたからです。

たとえば、現在、当事務所で扱っている医療事故で、訴訟になっている症例は、6件ほどあり、ここ1年余りの間に解決した医療事故が4件(歯科医や一般開業医の事件を除きます)、さらには提訴準備中の案件が2件ほどありますが、このうち、なんと半数が研修医のミスが絡んだ医療事故なのです。
ほかにも現在調査中もしくは示談交渉中の症例もありますので、厳密には半数よりは下回りますが、一方、上の12件のうちには医療事故といっても、介護あるいは入浴がらみの事故が2件含まれていますので、総合病院における医療事故に関していえば、実感としては、研修医のミスによる事故の比率が非常に高い印象です。
あくまで当事務所だけのことではありますが、他の弁護士からも同じような話を聞くこともありますから、たまたまということではないように感じますし、以前と比べても増加は顕著ですので明らかにそうした傾向が強くなっているのだと思います。

当事務所でここの所扱った研修医による医療事故をさらに分析してみますと、ある種の傾向、特徴があります。

その一つが、非常に初歩的なミスが多いということです。
たとえば、使ってはいけない薬を誤って投与したというものですが、現在訴訟中の事件では、敗血症の患者について血液培養検査を行って起因菌が判明したにもかかわらず、その起因菌には無効とされる薬を選択して投与し、その後の感受性テストで最初の薬が効かないことがわかったのに、またもや誤った薬を投与して、患者が死亡するに至りました。
また、最も多いのが、基本的な手技を間違ってしまうというものです。
これはたまたまなのかもしれませんが、当事務所で扱っている症例についていえば、4件が穿刺、つまり針を刺すという手技に関するものです。
具体的には、中心静脈カテーテルが2件、腰椎穿刺が1件、肝生検が1件ですが、中心静脈カテーテルの2件と肝生検は、いずれも動脈誤穿刺で出血多量となって患者は亡くなられていますし、腰椎穿刺の症例も、患者に重篤な後遺症が残っています。
また、この4件のうち3件は、合計の穿刺回数が、6回ないし10回に及んでいます(肝生検は途中でベテランの医師に代わっていますが、ほかはすべて研修医が終わりまでやっています)。
ほかにも、これは少し前ですが、重篤な急性腹症の事案なのに、対応した研修医がレントゲンも撮らず、3歳の子供を急性胃腸炎と診断して帰宅させたら、その夜、イレウスで急変して死亡したという症例もあり、これは研修医による明らかな誤診でした。

もう一点、研修医の事故を分析すると、看過し難い特徴があると感じます。
それは、いずれの事故についても、指導医がチェックした様子がまったくなく、ほぼノータッチで任せきりにしてしまっているのではないかと思われるということです。
いうまでもないことですが、研修医は、経験が浅く、基本的な手技にしても、薬や治療方針の選択にしても、デリケートな症例に関する診断にしても、必ずしも的確に行えるわけではありません。
ですから、場面場面で、指導医が適宜助言、指導をすることは必須といえるわけです。
しかし、上記の症例で、指導医が、途中で関与した症例は1件しかありませんでした(もっともその症例も、経過観察では完全に研修医任せで、結局患者は出血性ショックで亡くなりました)。
普通に考えて、中心静脈カテーテルにしても、腰椎穿刺にしても、7回とか10回もの回数穿刺を繰り返せば、動脈などに致命的な損傷をもたらす危険があります。
にもかかわらず、指導医が途中で交代せず、そのまま最後まで研修医に穿刺を繰り返させるというのは、もしその場に指導医がいたのであればあり得ないことで、研修医のミスというよりは、指導医のミスというしかありませんし、もっといえば、ミスというより、未必の故意なのではないかとさえ思えてきます。
実際、協力医の方とお話をすると、たとえば、電子カルテでも指導医が必ずチェックを入れるような仕組みになっており、重要な医療行為については、常に指導医がそばでチェックしながら行わせるようにしているそうです。
ところが、誤診で3歳児を死なせたケースでも、複数回の誤穿刺のケースでも、抗菌薬の選択を誤ったケースでも、指導医がその過程に関与した形跡はまったく見られませんでした。

前述した抗菌薬の誤投与の症例では、こんな信じられないことも起きています。
そのケースは黄色ブドウ球菌感染での敗血症だったのですが、血液培養検査と併せて実施される感受性テストでどの抗菌薬が効くかを調べるのですが、そのテストの結果が出た時点で、研修医は、感受性テストの判定の対象となっていない抗菌薬であるPIPCという薬を選択して投与する(そしてそれが間違っている)というミスを犯しているのですが、どうやら感受性テストで感受性ありと判定されたMPIPCと同じものだと勘違いしたためだというのです。
命に関わる場面で、笑い話にもならないような初歩的なミスを犯しているわけですが、このケースで指導医が選択に関与したとは到底考えられません。
とにかく、研修医の医療行為を指導医がまともに監督していないとしか思えないような症例ばかりなのです。

長くなるので、Part2に続きます。

2024年02月16日 > トピックス, 医療事件日記

日々雑感~能登半島地震と「流体」「活断層」のことPart2

弁護士 折本 和司

Part1からの続きですが、能登半島のエリアは、今回の地震が来る前には、国が作成する地震マップ上では、危険な活断層がないことになっていました。

また、一昨年の群発地震の際も、地震調査委員会の平田という委員長は、「今後も、しばらくは同程度の規模の地震が起きる可能性がある」と通り一遍の見解を述べるだけで、今回も同じ人物が同じような発言を繰り返していました。

しかし、Part1でも指摘したとおり、その時点ですでに、金沢大、京大あたりの研究者は、「流体」の存在に着目し、さらなる巨大地震、さらには津波の危険にまで言及していたわけですから、地震調査委員会の認識が不十分であったことは明らかだし、委員会の存在意義が疑われてもおかしくない失態なのではないでしょうか(多くの方が亡くなっているのですから、せめて、委員会の認識が甘かったくらいのことを言って頭を下げるくらいのことはしてほしいと思いました)。

そこからさらに考えたことがあるのですが、それは、地震予知でしきりに使われる「活断層」という言葉の意味の曖昧さです。

これって、本当に自然科学的にみて、正しく使われている言葉なのでしょうか。

たとえば、ここのところで起きている巨大地震のうち、「活断層」のずれで起きたとされるものは、長野県北部地震と熊本地震のみだそうで(東日本大震災は発生の機序が異なります)、それ以外は、今回の能登半島地震も含め、活断層があると事前に指摘されていない場所で起きているのだそうです。

となると、断層を活断層とそうでないものに分けることに何の意味があるのかという疑問が湧いて来ます。

もちろん、活断層がある場所では地震への備えに心がけるという啓発的な意味はあるのでしょうが、これから断層がずれる可能性があるかなんて、今の科学のレベルでは厳密に判断できないというのが本当のところではないでしょうか。

実際、今回の能登半島地震が起きたメカニズムが「流体」の影響によるものだとした場合、「活」断層か否かは、何の意味もないのかもしれません。

平松教授らによると、地下の流体は、東京ドーム23杯分もあったそうで(それがわかることがすごいですが)、それが海底の断層に入り込んで断層を押し広げ、ずれを招いたというのですから、流体の行方次第ということになり、流体が入り込む余地のある断層さえあるなら、何処であれ、今回のような地震は起き得るということになるからです。

ところで、「活断層」か否かは、日本の将来を左右する重要な場面で、意味を与え続けられて来ました。

それは原発の再稼働を認めるかどうかという場面でのことです。

政府の原子力規制委員会は、原発の立地が活断層の上ということでなければ再稼働を認めるという方針を取っており、電力会社側は、「指摘された断層は活断層ではない」という検証の報告書を提出して、再稼働に持って行こうとしている現状があります。

しかし、実際の巨大地震が、活断層と位置付けられてない場所で起きるというのであれば、そんな基準や議論には何の意味もないことになります。

実際、能登半島にあり、かなりの被害を受けたとされる志賀原発の再稼働に関する審査で、象徴的ともいえる茶番のような事態が起きています。

敬意をたどると、2012年ころ、志賀原発の敷地内に活断層があるのではという指摘があり、その後、国も活断層との認識を示していました。

ところが、その後、北陸電力側が、調査報告書を提出して、去年の原子力規制委員会で、いったんは国が認めた「活断層」との認識をひっくり返し、「活断層ではない」として、再稼働の方向に舵を切るという、今から見れば、明らかな失態を犯しました。

地下の流体が断層を押し広げて、断層のずれを引き起こすというメカニズムを前提に考えると、定義の曖昧な「活」断層か否かで、再稼働を認めるなんてもはや茶番というほかありません。

原発規制委員会の審査のあり方の根本が問われているといっても過言ではないでしょう。

前にもそういう表現を使ったことがありますが、原発は、「動かない(動かせない)核兵器」です。

実際、かつて宮崎駿監督はこんなにも多くの原発がある日本が戦争なんかできるわけがないと言っておられますし、北朝鮮は、日本と戦争になれば、原発にミサイルを撃ち込むと挑発していたこともあります。

戦争のことはともかく、もし、万が一にも、福島原発で起きたような事態が再び起きれば、その周辺が根こそぎ廃墟となることは避けられず、本当に取り返しのつかないことになります(実際、福島の現実は取り返しのつかないものです)。

今回は、たまたま海底の断層がずれましたが、志賀原発の直下あるいは近辺の断層がずれて、海底が数メートルも隆起すれば、電源喪失どころか、建屋が破壊され、メルトダウンは必至だったはずです(再稼働に反対する人の粘り強い運動がなく、再稼働となっていたら、今回の地震の影響でより重大な被害が出ていた可能性だって否定できません)。

原発の再稼働で議論されているような電源喪失を防ぐ体制のあるなしの次元ではないのです。

また、能登半島のほんの少し南西側には、いわゆる「原発銀座」があります。

そこに、今回のような巨大地震が直撃すればどうなるでしょうか。

関西圏、北陸圏は壊滅の危機に瀕するでしょうから、想像するだけで空恐ろしいことです。

所詮、原子力規制委員会も、地震調査委員会も、原発を推進しようとする今の自民党政府の関係機関にすぎません。

巨大な震える舌の上に乗っかっている日本列島に生きている以上、いつどこで巨大地震に見舞われるかわからないわけで、「活断層」なんて紛らわしい言葉でもって、国民を欺くのはもうやめて、すべての原発の稼働を停止していく方向へと政策転換すべきです。

今回の能登半島地震のことで、もう一つ強く感じたことがあります。

それは、地震が起きた後の援助、サポート体制が如何に脆弱であるかということです。

地震が起きた直後の救援活動の初動の遅さの問題もありますが、それだけでなく、今回のようにインフラが壊滅状態になったときに、現地で苦しんでいる人たちのことが連日カメラが入って報道されているにもかかわらず、なぜそれが未だに解消されないままなのかという備えの脆弱さについてです。

能登半島からちょっと外れた場所では、何事もなかったように人々は暮らしています。

もちろん、どこにいても、多くの人が日々の生活、仕事に追われていますから、それは致し方のないことでもあります。

ただ、地震や洪水などの重大な被害は、決して他人事ではありません。

それゆえ、起きてからの対応ということではなく、たとえば、水や食料、さらには住む場所の確保の問題あたりについては、災害が起きるよりもっと前の段階で、より広域で対応を考えておくべきことではないでしょうか。

実際、日本の人口は、すでに減少しかけており、あちこちで過疎化が進んでいますから、いざとなったときに、緊急で避難する人を受け入れる体制をあらかじめ構築しておくことは十分に可能だし、特に、地震や洪水などの甚大な被害は毎年のように起きているわけですから、それこそ、いざというときに何の役に立たず、政治的な思惑に左右されるだけの「何とか委員会」なんかより、そういう仕組みを優先的に作って、その時に備えておくべきと思います。

まあ、裏金工作で、如何にして自分の懐を温めようかということしか考えない、今の保守政党の連中には、期待するだけ無駄のようにも思いますが。

根本的な問題は、私たちが、この国をどうしたいかというところにかかっています。

目先の経済的利益を優先し、弱肉強食で、搾取される人が苦しむのを放置するような社会を目指すのか、そうではなく、経済的にも所得の再分配で健全な競争社会、そしていざとなれば助け合えるような共助の仕組みを手厚くするような社会を目指すのかということなのだと思います。

後者を目指したいと思う人が増え、選挙に行き、声を上げるような社会であってほしいと心から願っています。

2024年02月12日 > トピックス, 日々雑感

日々雑感~能登半島地震と「流体」「活断層」のことPart1

弁護士 折本 和司

2024年は、元旦から能登半島地震、航空機事故と波乱の幕開けとなりました。

地震については、かなりの方が亡くなられており、珠洲市あたりでは家屋の大部分が倒壊するなど、大変な被害となっており、心が痛みます。

被災された方々には心からお見舞い申し上げます。

まだまだ寒い時期が続きますし、本当に大変だとは思いますが、なんとか乗り切っていただきたいと思います。

今回の地震が起きてからいろいろな情報に触れながら考えたこと、思ったことなんかをつらつらと書き綴ってみようと思います。

長くなりますが、興味のある方はお読みください。

 

はじめに、ちょっと唐突ですが、火山のない和歌山に温泉が多い理由をご存じですか?

実は、去年、私は和歌山に2回も行ったのですが、その際にそんな疑問に触れました。

和歌山に2回行くことになったきっかけは、那智勝浦の色川という集落に住んでいる中学時代からの親友のお母さんが亡くなられたことでした。

遠く和歌山で亡くなられたお母さんのことを彼と一緒に偲び、見送ってあげたいと思い立って、久しぶりに和歌山に足を運びました。

帰ってから、今度はその話を横浜の弁護士仲間としていたら、その中になんと祖父が色川に住んでいたという友人がいて、そこから再度の和歌山行きが実現しました。

和歌山で楽しかったことはいろいろあったのですが、それはまたの機会ということで、ここから温泉の話をします。

 

和歌山にはあちこちに自噴の温泉があります。

旅行の際に泊ったのが川湯温泉というところで、その名のとおり、河川敷に湧く温泉に水着で浸かるのですが、移動中には「つぼ湯」で有名な湯峰温泉にも立ち寄りました。

湯峰温泉の場合、そばを流れる細い川にも硫黄の強烈なにおいが漂っていました。

ほかにも和歌山といえば、南紀白浜温泉あたりが有名ですが、旅の途中で、和歌山県には実はひとつも火山がないという話になりました。

なのに、なぜ温泉がこんなにたくさんあるのか、不思議に思ってちょっと調べたのです。

 

調べていくうちに知ったことですが、和歌山は今でこそ火山がないものの、1400万年前には阿蘇山よりもはるかに巨大なカルデラの火山があったのだそうです。

そのため、紀伊半島は火成岩で形成されており、太平洋に大きく出っ張って黒潮に面していながら、潮流に削られないであの半島の形を保っていられるのは、固い火成岩のおかげであり、那智の滝のむき出しの岩肌も火成岩だとのことでした。

それはともかく、ここからが本題です。

和歌山に温泉が湧き出る理由というか、メカニズムですが、それはユーラシアプレートの下にフィリピンプレートが潜り込んでいく中で、海水が引き込まれるのだそうで、引き込まれた海水が地下で熱せられて、豊富な地下水がその影響で温められて温泉となって湧き出るのだそうです。

実際、南紀白浜温泉の湯温は100度にもなるそうですが、私たちの足元の地球の奥深くには、人智などはるかに及ばない苛烈な自然が潜んでいるんだとそんなことを考えたりしました。

 

調べ終わった時には、「ふーん、なるほど」という感じで受け止めていたのですが、年が明けて能登半島で震度7の地震が起きた際に目にした地震のメカニズムに関するニュースを見て、「あれっ?もしかして」と思うようになり、そこから少し情報収集に努めました。

なぜかというと、能登半島の地震も、おおもとに遡れば、フィリピンプレートの潜り込みによって起きているということだったので、もしかしたら和歌山の温泉の話と共通する点があるのではないかと思ったからです。

聞きかじりの知識ですが、どうやらビンゴのようです。

能登半島ではここ数年群発地震が続いていて、一昨年の5月にもかなりの規模の地震が起きているのですが、この群発地震のメカニズムを研究している京大や金沢大等の学者が、一昨年の地震の際、以下のようなことをおっしゃっていたのです。

そのうちの金沢大学の平松教授の発言ですが、「この群発地震は、フィリピンプレートの潜り込みとそれに伴う大量の『流体』の影響で起きており、この流体の影響が海底の断層に及べば、さらに大きな地震や津波が起きる危険もある」と明言されていました。

そして、この正月にまさにその指摘通りの事態が起きてしまったわけです。

最近読んだ、東京工大の中島教授という方の研究成果の記事でも、「流体には浮力があり、この流体が地下断層に及べば、液体の影響で断層が滑りやすくなって、地震を誘発する」と記載されていました。

 

私は、今回の地震のニュースで初めて「流体」という言葉を知りましたが、プレートが潜り込んで、海水が引き込まれていくということであれば、火山帯がない場所に温泉が出るのとまったく同じメカニズムということになります(実際、能登半島の地下の流体は非常な高温のようです)。

実は、和歌山の温泉の情報に接したときには、このプレートの潜り込みというのは、紀伊半島の下くらいまでだと勝手に思い込んでいたのですが、そんな規模ではなく、プレートは日本列島を超えて、日本海側にまで潜り込んでいたというわけです。

この潜り込んでいるプレート(今回は位置的にフィリピンプレートなのかもしれませんが、伊豆半島から東側は太平洋プレートが潜り込んでいますから、同じことです)を舌にたとえると、日本列島は常にこの凶暴な震える舌の上に乗っかっていることなわけで、つくづく日本は地震に見舞われるリスクが非常に高い地理的な条件の国なのだとあらためて痛感させられます。

となると、日本列島では、いつどこで巨大地震が起きるかは本当に紙一重といえますし、この島国で暮らす私たちの日常や経済的繁栄なんて自然の驚異の前では砂上の楼閣にすぎないのかもしれません。

この話はさらに続きますが、長くなるので続きはPart2で書きたいと思います。

 

2024年02月12日 > トピックス, 日々雑感

事件日記~最近当事務所において解決した、ある交通事故案件についてのご報告

葵法律事務所

弁護士は、事案に応じ、局面に応じ、様々な選択をしなくてはなりませんが、その中で大変なのは、新しい法律知識や判例の検討はもちろん、実務の動向にも気を付けなくてはならず、実は、それが落とし穴になることがあるということです。
最近扱った、ある交通事故の件がその好例といえますので、今回はその事件を取り上げてみます。

事件は、高齢の女性が横断歩道上を渡っていたところ、広い交差点であったため、青信号で渡り切れず、赤信号になってしまい、前を見ないで突っ込んできたバイクに撥ねられ、高次脳機能障害になったというものですが、この事件の加害者の男性は自賠責保険にしか入っていませんでした。
自賠責で支払われる額は、通常、任意保険よりもかなり低額になることが多いのですが、この事件では、たまたま、依頼者の息子さんが別の総合保険に入っていて、家族が人身傷害の被害を受けた場合も一定の補償を受けられるようになっていましたので、症状固定後、自賠責の被害者請求を行い、さらに当該保険会社からの条件提示を受けるに至りました(実際にはそれまでも紆余曲折はあったのですが)。
提示された条件は、検討してみると、加害者が任意保険に入っていた場合に比べ、やはり低額なものでした。
そこで、当職らは加害者に対して損害賠償請求訴訟を提起することとしたのです。
この点がポイントなのですが、この提訴の主目的は、資力の乏しい加害者から賠償を得るということではなく、人身傷害特約付きの保険契約を締結している損害保険会社から上乗せの保険金の支給を受けるというものでした。
実は、平成24年ころに保険実務が変更になったことで、被害者側が、加害者側に対して、訴訟を提起し、裁判所での和解もしくは判決で損害額が確定した時点で、上乗せの金額が支払われる場合があり、本件ではそれを利用してみる価値があるということで、訴訟を提起することとしたのです。
訴訟先行型と呼ぶのですが、つまりは、この制度を知らなければ、保険会社側が提示した金額をベースとした解決で終わってしまうことになるわけですから注意が必要なわけです。

訴訟になれば、事故態様からして、裁判所から早期の和解案提示がなされるのではないかと想定していましたが、実際には加害者側の代理人が、事故態様、過失割合等を正面から争ってきたことから、事故態様の立証などにエネルギーを割かなくてはなりませんでした。
確かに、加害者側としては、保険会社から将来求償を受ける可能性がある以上、損害額を減らしたいと考えるのは当然でもあり、このあたりはやむを得ないところでもありました。

ただ、この事件は、途中から様相を変えました。
加害者の代理人が、急に、破産申し立ての検討を始めたと伝えてきたのです。
そこで、保険会社側に確認するなどして検討したところ、破産が先行してしまうと、加害者側への求償が難しくなるため、当初の提示額にとどまってしまうという話が出てきたので、そこからは、一方で保険会社側から規約の提示を受けたりしながら、他方で、裁判所や加害者側との折衝を行うという両面対応を余儀なくされました。
結論的には、加害者側が破産申し立てをする前に、和解を行うのであれば、上乗せ額が支払われるという点を保険会社側に確認したうえで、裁判所に和解提案を求め、加害者側もそれを了承して、和解に漕ぎつけ、無事に解決に至りました。
保険会社の当初の提示額よりも1000数百万円程度の上乗せとなり、訴訟先行型の実を得られる解決となり、我々としても胸を撫で下ろしました。

交通事故に遭った時、加害者が任意保険に入っていないため、十分な賠償を受けられないというケースは、遺憾ではありますが、決して稀なことではありません。
そのことについて思うのは、事故のほとんどは過失によるものですが、任意保険に入らず、車を運転するというのは、「故意」であり、そのこと自体が厳しく罰せられるべきではないかということです。
なぜなら、大部分の運転者にとって、避け難いような状況で起きた事故であっても、ひとたび事故が起きれば、何らかの過失を問われることがあり得ますし(特に歩行者相手の事故についてはそういえます)、そうである以上、十分な賠償がされるための任意保険への加入は、「任意」ではなく、運転者の基本的な義務といえるからです。
ただ、実際は、任意保険に加入していない、さらには自賠責にすら入らず、ハンドルを握っている人が少なからず存在します。
そんな人がいったん事故を起こせば、被害者のみならず、加害者やその家族にとっても時に一生を左右しかねないほどの経済的な重荷を背負うことになるのです。
そうである以上、被害者側にとっても、別の損害保険に入って、人傷特約を結んでおくことは、いざという時の備えになりますし、本件であらためてそのことを痛感しましたし、弁護士としても、そのような事件に遭遇した場合には、保険の規約を精査し、それを最大限生かすような活動をしなくてはなりません。
なお、これも訴訟の中で知ったことですが、一言で訴訟先行型といっても、保険会社から受けられる保険金額は、会社によってその計算方法がかなり違っていますので、この点でも注意が必要です。
ともあれ、人生、いくつになっても日々勉強です。

2024年01月23日 > トピックス, 事件日記
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