医療事件日記~良い協力医、鑑定医に出会うためにPart1
このホームページでも何度か取り上げたことがありますが、医療訴訟で最も大変な活動の一つが、私的鑑定意見書の作成を専門医にお願いし、作成、そして裁判所への提出に漕ぎつけるまでの手間暇です。
元々、医療事件では、基本的な資料は医療側に偏っている中、原告は医療については素人の一般人であるのに対し、被告は医療の専門家だというハンディがありますが、実際に事件を扱って行く中でいうと、節目節目で事件の領域の専門医の協力を得て、適切な助言をいただき、できれば鑑定意見書の作成まで協力していただくまでが本当に苦労の連続なのです。
医師の協力という点でも、医療側には、事件当事者の医師、その所属病院、さらには保険会社のルートで協力してくれる医師を確保できますが、患者側には基本的にそのようなルートはありませんから、その点のハンディはさらに大きく、そもそも当該事故の領域でピンポイントで協力いただける医師に辿けないということも決して稀なことではありません。
しかし、現実の裁判では、裁判所は、このようなハンディがあることを知ってから知らずか、それとは関係なく、原告側に医学的な立証活動を求めてきます。
もちろん、そうした準備は提訴前の段階で行ってできる限りおくべきではありのですが、実際の裁判においては、どんなに周到に準備をしたつもりでも、医療側から思いがけないような医学的主張が飛び出してくることは普通に起きることなので、やはりその主張に対応して医学的反論を行わなくてはなりませんし、そのために専門医の協力をお願いしなくてはなりません。
といった次第で、訴訟が始まって以降に専門医から新たな助言を受け、さらには鑑定意見書の作成を依頼するということはごく普通に起きることなのです。
そこで、ここのところの医療裁判で、裁判中に私的鑑定意見書の作成を依頼し、提出に漕ぎつけた体験(苦労話)をいくつかご紹介させていただきます。
なお、今回の記事は提訴前ではなく、提訴後にフォーカスしたものになっています。
提訴前だと、無限ではないものの一定程度時間がありますが、提訴後は次回期日や提出期限が定められてしまうので、限られた期間で鑑定意見書作成にまで持って行く苦労は、提訴前とは大きく異なるからです。
ともあれ、いろいろありますが、最後は「当たって砕けろ!」(砕けてはいけないのですが)の精神が肝心という結論になります。
実際、ある程度医療事件を経験し、相談できる協力医の方との信頼関係を構築している弁護士であっても、一つ一つの事件の様々な局面で医師からの適切な助言を得るための苦労は尽きず、それゆえ、あれこれと知恵を絞り、良い協力医の方に出会うための努力(失敗も含めて)を積み重ねてまいりましたので、そのようなことでお悩みの弁護士がおられましたら、多少なり参考にしていただければ幸いです。
専門医に私的鑑定意見書を作成していただくといっても、そのプロセスはいろいろあるのですが、事故の医学的な争点の専門領域の医師との関係があるかないかによってその苦労の度合いも大きく異なります。
中でも脳や循環器の領域の事故は難しく、最初は非常に苦労しました。
最近では大体の領域について相談できる医師との関係が直接、あるいは間接的にでも構築できつつあるので、相談自体はできるのですが、結構悩ましいのは、医師の専門領域も実際には分化していたりして、畑違いで協力いただけないこともあります。
実際、ある時、カテーテルの事故で循環器内科の専門医の方に相談してみたところ、「自分は不整脈の専門なので、カテーテルのことはわからない」と断られました。
裁判の中で、鑑定意見書の作成をお願いしなくてはならない場合、まずは提訴前から協力いただいている医師にそのまま追加の鑑定意見書の作成をお願いするというのが最も多いパターンとなります。
それはやはり事案をよく理解していただいているので、被告側のごまかし的な反論に対して的確な医学的反論をしていただけることが可能だからです。
同じ鑑定医であれば、私たちの労力的な負担も少なく済むので助かります。
しかし、医療側が全然別の争点を持ち出してきて、それが明らかに別の領域であるような場合は、当然別の医師にお願いしなくてはなりません。
そのような場合に、まず試みるのは、信頼関係のある協力医の方に新たな領域の医師をご紹介いただくというやり方ですが、鑑定意見書となるとハードルは高く、紹介いただいても鑑定意見書の作成にこぎつけるのは容易ではありません。
いくら信頼できる親しい友人の医師からの紹介があっても、医学的助言と実名で鑑定意見書を作成するということの間には彼岸の差があるからです。
そうやって断られた時に成果なく帰途につくのはとてもつらいのですが、致し方ないことでもあります。
協力医からのルートで見つからない場合にどうするかですが、その場合は、名古屋にある「医療事故情報センター」ルートでの紹介という手順を踏むという方法を試みることがあります。
医療事故情報センターで登録しておられる医師であれば、検討の結果、積極意見がいただけそうであれば、基本的には鑑定意見書の作成に応じていただけますし、ある程度経験を積んでおられる医師であれば、非常に良い鑑定意見書を作成していただけることが期待できます。
ただ、専門領域によっては登録している医師が少なく、時間をかけても良い医師に出会えないこともあるという難点もありますし、手順として候補の医師が決まった後に面談をしてもらわなければならず、時間も一定程度かかり、費用もかなり高額です。
また、センター経由でも領域によっては登録している医師自体が少ないという問題もあります。
そういったことから、裁判手続が進行中の状況でセンターに申し込んで、面談、意見書作成という手間をかけるのは現実的には難しいことが多いというのが実状でもあります。
協力医からの紹介やセンター経由でのアプローチも難しい時にどうするかですが、いよいよ「当たって砕けろ!」になります。
長くなるので、続きはPart2で書きたいと思います。
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart2
Part1に続き、原爆が広島や長崎に投下された経緯について書いてみたいと思います。
原爆投下に至る経過については、Part1でも触れましたが、投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのが1945年4月、爆発実験の実施、成功が同年7月、広島への原爆投下は8月6日と、戦争の末期ですでに戦後処理について、連合国側で駆け引きが繰り返される中での極めて短期間の政治決定でした。
ご存じの方もおられるかもしれませんが、その中で、同年6月にアメリカの高名な科学者たちが作成し、大統領諮問委員会に提出した「フランク・レポート」と呼ばれるものがあります。
この「フランク・レポート」の中で、彼らは「日本への原爆投下を思いとどまるべきだ」という提言をしています。
しかし、その提言は採用されることなく当時の大統領であるトルーマンは原爆投下を決定します。
この背景に何があったかですが、その一つとして指摘されているのはトルーマンは黄色人種に強い偏見を持っていたということです。実際、彼は「けだものと接するときはけだものとして扱うしかない」(ここでいうけだものとは日本人のことを意味しているそうです)と手紙に記しています(ほかにも、戦後、トルーマンは原爆投下に関するファイルに「ジャップ爆弾事件」という差別的なタイトルをつけていたそうです)。
また、もう一つ見逃せないのが、戦後にアメリカのエネルギー省によって作成されたレポートです。それによると、第二次世界大戦当時のアメリカ政府は、広島、長崎への原爆投下を「実験」として位置づけています(もっとも、「実験」という記載はその後用いられなくなります。さすがにまずいと考えたのかもしれませんが)。この実験という言葉の意味ですが、普通に読めば、広島、長崎への原爆投下は、人類史上初めて作られた核兵器の実際の威力、環境への影響を検証するための行為だったと解釈されます(トルーマン自身、原爆投下後に「実験は大成功だった」と述べていたという話もあります)。
実際、アメリカは終戦後すぐに広島長崎に入り、以後、現地において非常に詳細な調査を行っています。原爆症認定訴訟の中で私たちが裁判所の手続で入手した放射線影響研究所(放影研)のレポートは、戦後のアメリカによる調査の資料を引き継いで保管していたものですが、その調査記録は、個々の被爆者に関する被爆当時の状況から被爆後の健康状態に関する追跡調査も含め、驚くほど詳細なものとなっていました。原爆投下直後からこのような詳細な調査が行われていたことは、広島、長崎への原爆投下が、まさに「実験」だったことを示しています(さらに、戦後のアメリカによる被爆者に対する調査は、放射線の影響を「研究」するためのもので、被爆者の放射線被害に対する治療は原則として行っておらず、2017年になって、放影研はそのことを公的に謝罪しています)。
ただ、振り返って考えてみると、もしアメリカにとっての当時の敵国が日本ではなく、ドイツ、イタリアであったなら、この「実験」は行われなかったのではないでしょうか。
トルーマンが根深い人種的偏見を持っていたことが、「黄色人種相手なら、無差別殺戮となるような実験を行っても構わない」との発想となり、「フランク・レポート」のような原爆投下に反対する意見があったにもかかわらず、それに耳を貸さず、究極の大量殺戮兵器である原爆を広島と長崎に投下するという決断へとつながったともいえるのではないでしょうか。
ところで、原爆投下を止めるようにと提言した「フランク・レポート」の中には、他にも注視すべき重要な記述があります。
まず、同レポートでは「原爆の情報をアメリカが独占するのではなく、オープンにして国際管理を進めるべきだ」という提言がなされており、その理由として、科学者たちは、「科学技術の独占は極めて困難なので、結局のところ、いつか敵国にも共有されることになる。それならば先手を打ってソ連などが開発できていない現時点で、仲間に引き込んでしまって、世界でこの兵器を管理してしまうほうが現実的だ」と主張します。
さらに示唆的なのは、「デモンストレーションであれ実戦使用であれ、原爆をいったん使用したらその時から原爆開発・軍拡競争が始まる。世界の各国はあらゆる資源と技術をためしてより威力のある原爆をより効率的に安価に数多く作ることに取り組む。さもなければ、自国を守れないからだ」との記述です。
まさに、この「フランク・レポート」を作成した科学者が予期し、危惧したことが、今、この地球上で起きている現実となっているわけです。
振り返ってみれば、もしあの時のトルーマンが、この「フランク・レポート」をきちんと受け止め、自身の偏見に囚われず、核兵器のもたらす未来に関する洞察力や大局的な視点あるいは他者の指摘に耳を貸す謙虚さを持つ指導者であったならば、核兵器開発競争に明け暮れ、核抑止力と称して脅しを掛け合うような未来ではなく、もっと融和的な異なった世界が築けたのではという気がしてなりません。
指導者の選択も含め、人は時として誤った道を選びます。しかし、そこであきらめず、おかしいことに対しては声を上げ、変えていく努力をするしかないわけで、今からでも遅くないと信じ、「フランク・レポートで述べられているような仕組みを作るために人類の叡智を結集しなくてはならない」、被団協のノーベル平和賞受賞の報に接して、あらためて痛切にそう考えています。
いつの時代であれ、その時代を生きている私たちには、目の前の現実に囚われず、次の世代のために理想を求めることを忘れず生きていく責任があるからです。
日々雑感~日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うPart1
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会。以下、「被団協」といいます)が今年のノーベル平和賞を受賞することになりました。
そのこと自体は、本当に称賛されるべきと思いますし、広島で生まれ育った被爆二世であり、原爆症認定訴訟にも関わった私にとっても感慨深いものがあります。
被団協の長年にわたる活動は、後遺症に苦しむ被爆者に対する救済にとどまらず、被爆の実相を広く訴え続けたことが世界の反核兵器活動に与えた影響は大きいといえますし、今や「被爆者」という言葉は、「ヒバクシャ」あるいは「Hibakusha」と表記されるようになり、「ノーモアヒバクシャ」という反戦の叫びは世界に広まってもいます。
原爆症認定訴訟において、国側は政府も被爆者救済に尽力してきたというような主張をしていましたが、実際は逆で、消極的な国の姿勢に対し、被団協をはじめとする様々な人たちの粘り強い運動によって被爆者援護法による救済の仕組みが実現され、被爆の実相が広く社会に知られるようになって行ったというのが本当のところです(このあたりの被爆者の人たちの苦闘の歴史については、広島の産婦人科医である河野美代子さんという方のブログ記事が詳しいので、興味のある方はぜひお読みいただければと思います)。
唯一の被爆国の政府が、未だに被爆の実相から目を背け、核兵器廃絶に後ろ向きの姿勢を持ち続けていることは本当に情けなく恥ずかしいことですが、そこに抗い、闘い続け、国際社会にも核兵器の恐ろしさを訴え続けてきた被団協の活動は、人類の歴史上において最も意味のある社会運動の一つだと思いますし、今回のノーベル平和賞はその活動の意義が評価されたもので受賞に相応しいと思います。
しかし、なぜ今このタイミングで被団協がノーベル平和賞を受賞したのかを考えると、その受賞を手放しで喜ぶことはできません。
なぜならば、ノーベル平和賞はその時々の世界情勢を反映する傾向があるといわれていますが、第二次世界大戦後、今ほど核戦争の危機が身近に迫ったことはなく、今回の受賞にはそれが影響しているのかもしれないからです。
実際、今の世界情勢を見ると、ウクライナを侵攻したロシアのプーチン大統領は平然と核兵器使用の可能性に言及していますし、中東情勢も混とんとしており、イスラエルのガザ侵攻はその後レバノンへの侵攻、無差別攻撃、イランとの間でも双方が爆撃を繰り返すなど、中東全体に広がってさらにエスカレートしており、根っこに宗教的価値観の対立があるだけに、いずれかが壊滅的な被害を受けるような状況に陥れば、対抗手段として核兵器が放たれる可能性は否定できないし、その危険性は日に日に高まっているのではないでしょうか。
さらには、アメリカでトランプ大統領が誕生することが決まりました。差別や偏見を声高に語り、分断、対立を煽るトランプのような人物が大統領になれば、それこそ何かの弾みで核兵器が使用されるのではないか、さらには彼が日ごろからロシアやイスラエル寄りの発言をしていることからして、ロシアやイスラエルの核兵器使用が容認されてしまうのではないかとの危惧も拭えません。
こうした核兵器の使用の危険性の高まりについて現実的にはピンとこないというか他人事のように感じる人もおられるかもしれませんが、歴史を振り返ってみれば、かつての広島、長崎への原爆投下も、当時の愚かな指導者の、自身の持っている偏見と当時の世界情勢への近視眼的な考え方が合わさって決定された面があり、非常に短絡的な政策決定であったといえます。
詳しくはPart2で述べますが、時系列でみても、原爆投下を決定したトルーマンが大統領に就任したのは1945年4月、爆発実験の成功は同年7月、そして広島への原爆投下は8月6日であり、極めて短期間の政治決定だったことは明らかです。
私たちは、常に過去の歴史を教訓にしながら未来を考えて行かなくてはなりませんが、人類を破滅に導きかねず、また戦争を仕掛ける国が他国を威嚇する手段としてもてあそんでいるともいえる核兵器の問題を考えるうえで、広島、長崎への原爆投下がどのように決定されたか、その歴史にきちんと目を向けておくべきだとあらためて強く思います。
その意味では、昨年話題になった「オッペンハイマー」という映画は、原爆を投下した側のアメリカで作られたものとしてはタブーに踏み込んだ作品といえるかもしれませんが、オッペンハイマー自身の内心の苦悩を中心とした描写に偏っていて、なぜあの時原爆が広島や長崎に投下されたのかという最も描かれるべき歴史の深層に切り込んだ作品にはなってはいません(そこがハリウッド映画の限界といえるかもしれませんが)。
Part2では、そのことを取り上げてみます。
医療事件日記~「不適切」と「適切でない」の違いについて
医療事件で、多くの弁護士が最も苦労し、負担となるのが鑑定意見書の問題です。
もちろん、鑑定意見書といっても、患者側、医療側がそれぞれ自ら依頼して作成してもらう私的鑑定意見書と、裁判所の手続として行われる公的鑑定意見書では準備の手順も異なるのですが、いずれも我々にとっては非常な負担となることに変わりはありません。
いろいろな苦労がありますが、本日は鑑定事項の設問の表現ということに焦点を当てて取り上げてみます。
私的鑑定意見書の何が大変かというと、医療事故の争点に合致する協力医を見つけて、鑑定意見書の作成に協力してもらうところまでたどり着くこと自体が、決して容易ではないということです。
もちろん、争点を理解してもらうための面談や資料の提示、説明に労を要しますし、裁判の展開の中で、私的鑑定意見書の作成をお願いしなければならなくなったときは、いきなり目の前に3000メートル級の山が聳え立ったという感じで暗澹たる気分になることも少なくありません。
これに対し、公的鑑定意見書では、鑑定医のリストは裁判所が用意してくれるので、その点ではまったくゼロから探すのとは違いますが、実際にはそこから適切な鑑定医の選任に至るまでで医療側や裁判所との協議を経る必要があり、相当な苦労があります。
もっとも、鑑定医の選任に関する協議と並行して、鑑定事項を詰めていく作業があり、こちらもかなり大変となることが少なくありません。
最近では、訴訟手続きの中で争点整理を早い段階で行うことが増えているので、大体の争点は共有できているのですが、鑑定事項の中にどこまでそれを反映させるかについては議論になってしまうこともあります。
最近も経験したことなのですが、鑑定事項の設問の表現を巡って議論となり、明らかにおかしいと思うことがありました。
それは何かというと、過失に関する鑑定事項の末尾の表現について、医療者の個々の診療行為が過失にあたるか否かを尋ねるにあたって、「不適切でしょうか」と問うか、「適切ではないでしょうか」と問うかということに関する議論です。
この点、裁判所の傾向としては、「不適切でしょうか」と問うように求めてくることが多くなっているようです。
この違いがどのくらい重要な意味を持つか、ピンとこない方が多いと思いますが、実際に医療訴訟に関わっている立場からすると、結構重大な分岐点になることも少なくありません。
まず、そもそも、裁判所は、なぜ「不適切でしょうか」と問うように求めてくるのでしょうか。
裁判官と話していたら、「適切ではないという答えは、イコール過失を意味しないからだ」との返答がありました。
現に裁判官がそのような見解を滔々と述べている文章もあります。
しかし、適切でないと第三者の医師が指摘するような医療行為が過失にあたらないなんてことがあり得るでしょうか。
実際にいろいろな医師の方にお会いしていて感じるのは、現実にその医療行為に携わっておらず、患者も診ていない第三者の医師としては、軽々にミスを指摘できないというのが医師の心情としては率直なところだということです。
そのような前提からすれば、鑑定医が当該医療行為について「適切ではない」という意見を述べるということ自体、相当踏み込んだ表現であり、それは医療ミスを明確に指摘したものとできると思います。
裁判所の一部にある「適切ではないという答えがイコール過失を意味しない」という発想は、言葉遊びに等しく、まさに机上の空論だと感じざるを得ません。
もう1つ、実務的にはこの点がとても重要なのですが、「不適切でしょうか」と問いだと、「不適切とまではいえません」という意見が引き出されてしまうことがあるという問題があります。
これは答える側の人間の心理の問題でもありますが、鑑定医が当該医療行為は間違っていると感じている場合、「適切でしょうか」との問いに対しては、さすがに「適切です」とは答えにくいのに対し、「不適切でしょうか」との問いに対しては、「不適切とまではいえません」という曖昧な答えが出てくる可能性が少なからずあります。
特に鑑定医としては、当該医療事故に直接関わっていない以上、断言しづらいという心理が働くこともありますし、同業者のミスを積極的に指摘しづらいという心理が働くことも否定できません。
鑑定事項の表現については、このような鑑定医の心理への影響も踏まえて検討されるべきだと思います。
裁判所があくまで「不適切でしょうか」と問いに固執するのであれば、それこそ「不適切にもほどがある」のではないでしょうか。
医療裁判の領域は、まだまだ発展途上であり、これからも試行錯誤は続くと思いますが、鑑定に関する裁判所の運用のあり方についても、どのようなやり方が真相解明に資するかという視点を忘れずに取り組んで行ってもらいたいし、患者側代理人としてもきちんと訴えて変えて行かなくてはならないと思います。
事件日記~遺留分のお話Part1~遺留分と主張の期間制限
遺言が存在する相続案件で出てくる権利が「遺留分」です。
民法1042条以下で定められていますが、2019年7月1日を境に制度改正がなされていてその前後で扱いが異なる点もあるので注意が必要です。
その内容については各所で取り上げますが、実際には遺留分はいろんな局面で登場してきます。
当事務所の弁護士が扱った事件や関連判例などに言及しつつ、幾度かに分けて取り上げてみたいと思います。
まず、遺留分とは何かですが、遺言があっても留保される権利(取得分)ということになります。
大まかにいえば、遺留分は法定相続分の2分の1とされています。
つまり、たとえば、配偶者と子が相続人である場合、法定相続分は配偶者が2分の1、子が2分の1(複数いれば按分されます)となりますが、遺留分はその2分の1となり、配偶者、も子も4分の1となるわけです。
ただ、兄弟姉妹には遺留分は認められていません。
子も親もいない場合、兄弟姉妹にも法定相続分が認められているのですが、被相続人が遺言を遺していれば、兄弟姉妹に遺留分がないので、遺言の内容に異を唱えて権利主張することはできないというわけです。
被相続人の死後に遺言が出てきたときには、遺留分権利者は遺留分を主張することができますが、法律上の用語で、それを遺留分侵害額請求権(旧法では「遺留分減殺請求権」と呼ばれていました)といいます(現時点では改正前の旧法の適用場面の事件も多いので、以下の記事では時期に応じて使い分けさせていただきます)。
ただ、この遺留分侵害額請求権の行使についても一定のルールがあります。
何より重要なことは権利行使に期間制限があるということです。
法定相続と異なり、被相続人の意思で遺言が作成されている以上、原則的にはそれが尊重されるべきであり、不利な内容の遺言だと知った遺留分権利者がいつまでも権利行使をしない場合にいつまでも権利行使が可能とすることは法的な権利関係を不安定にしてしまうからです。
遺留分侵害額請求権行使の期間は、自身の遺留分を侵害している内容の遺言の存在を知ってから1年以内です。
新法の条文上の表現では「相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間」となっています(民法1048条。同条文では、もう一つ、相続開始から10年で消滅するという規定も設けられていますが、これは不利な遺言の存在をずっと知らないままであった場合の定めです)。
現実には、遺言は被相続人の自宅内にあるか、相続人の一人、あるいは第三者(弁護士、税理士、銀行など)が保管していることが多く、通常は被相続人の死後にそれが開示されるか、自筆証書遺言の場合だと、家庭裁判所で「検認」という手続が取られなくてはなりませんので、そうしたタイミングで他の法定相続人も遺言の存在を知ることになります。
いずれにしても、遺留分侵害額請求権は自身に不利な遺言の存在を知ったその日から1年以内に行使しなければ以後はまったく主張することができなくなるわけです。
注意すべきは、遺言の効力を争うような場合であっても、遺留分侵害額請求権を期間内に行使することを絶対に怠ってはならないということです。
現実には、必ずしも被相続人の真意とは考えにくいような偏った内容の遺言が死後になって突如として出てきたり、遺言の作成時期がすでに判断能力の衰えつつある段階のものであったり、あるいは被相続人を一部の家族が抱え込んで他の家族を遠ざけてしまっていたりとか、遺言を巡っては様々な事情や経緯があったりします。
それゆえ、中には遺言の効力そのものを争いたくなるような事案も少なからず存在するわけですが、そこで遺言の効力の方にばかりに気を取られていると、遺留分侵害額請求権の行使のことは失念してしまいがちなものです。
しかし、現実には遺言の効力を争うといってもそのハードルはかなり高いので、有効とされた場合に備えて遺留分侵害額請求権の主張を時効期間内に行っておくことは必須となります。
この点、弁護士にとって首筋が寒くなるような判例もあります。
それは、遺言無効の訴えの事件を受任した弁護士が、遺留分侵害額請求権の行使につき助言を怠ったため、それが弁護士の善管注意義務違反にあたるとして依頼者からの損害賠償請求が認められたというものです。
ともあれ、遺留分侵害額請求権は時効期間経過前に行使さえしておけば、そこからは腰を据えて検討することができますので、内容証明郵便という証拠の残る形で意思表示を行っておくことが肝要です。
次回は、遺留分放棄の許可について取り上げます。