日々雑感~「VIVANT」と「シビリアンコントロール」
この夏最大の話題のドラマとなっているTBS日曜劇場の「VIVANT」ですが、主演の堺雅人さんや阿部寛さんのファンだということもあり、またそれとは別の興味もあって、放送開始から毎回欠かさず観ております。
ドラマとしてみても、毎回あっと驚くような展開や仕掛けがあって非常に面白いと思いますし、ともすればちまちまと日常風景の中での出来事をなぞるようなここのところの日本のドラマと違って、スケールが大きく、テンポもよくてとても見ごたえがあります。
あと、なんといっても、堺雅人さん、阿部寛さんをはじめ、非常に芸達者な役者さんが揃っていて、その熱い演技力でぐいぐい惹きこまれるのも大きな見どころといえるでしょうし、話題となっている伏線と考察の盛り上がりも一興といえます。
ただ、何より私が興味を惹かれるのは、「VIVANT」が、自衛隊の裏組織とされる「別班」を扱っているということです。
この「別班」は、非合法組織と言われているだけに、それをどのような切り口で描くのかは、単なるエンターテインメントでは済まないところがあると思うからです。
なので、今回はそうした視点から「VIVANT」を取り上げてみたいと思います。
この記事の時点で「VIVANT」はすでに7回目の放送を終えていますが、実のところ、「別班」をどのように位置づけて描こうとしているのか、その全体像は未だ見えていません。
主演の堺雅人さんが「別班」の人間ということなので、普通に考えれば、正義のための組織のような描かれ方になる可能性もあります。
最もわかりやすい図式で言えば、国際テロ組織とされる「テント」と日本の警察組織の「公安」、そして「別班」の間の三つ巴のような展開が考えられます。
しかし、私はそのような展開にはならないと予想していますし、あの福澤克雄さんが練りに練った原作だけに、シンプルな勧善懲悪ドラマになるはずはないでしょう。
実際、第7回の終盤あたりでも、今後、一筋縄で行かないだろうなと匂わせる衝撃的な展開がありましたが、「別班」という組織を巡る複雑な背景(もちろん、それ自体はフィクションということになりますが)が明らかにされるに違いないというのが現時点における私の予想です。
ただ、ドラマの筋書きの予想というよりは、「別班」を単純な正義の味方のように描くことについては、やはりそれはあってはならないというのが私の願いでもあります。
なぜならば、この「別班」という組織は、実在するのであれば、憲法が定めたシビリアンコントロール(文民統制)の枠組みから逸脱する存在と考えるからです。
私がこの文章を書こうと思った理由もそこにあります。
そもそも、憲法66条がシビリアンコントロールを定めたのはどうしてかということを過去の歴史を踏まえて理解しておく必要があります。
それは、かつて、日本の軍部が力をつけ、暴走して、あの悲惨な太平洋戦争を引き起こしたことへの反省を教訓として、軍人、あるいは元軍人が権力の中枢に入ってはならないということであり、それゆえ、憲法に、わざわざそのような規定が設けられたという経緯なのです。
もちろん、文民のみと制限しても、侵略戦争を厭わないような人間が権力を握る可能性はあるわけですが、軍部を代表するような人間が権力中枢を担わないと定めておくことの「歯止め」としての意義は非常に大きいといえます。
このシビリアンコントロールの規定に従えば、内閣が承知しないような諜報機関のような組織が存在すること自体、非常に危険なことで、憲法上決して容認できないことといえるわけです。
ただ、ネットの記事やコメントを見ていると、緊張感の高まっている国際情勢の影響もあってか、「別班」のような組織が必要であるとシンプルに肯定的にとらえている人も少なからずいるように感じます。
しかし、大切なことは、諜報的な活動をする組織が存在していいかどうかということと、そうした活動をする組織について主権者たる国民が知り、チェックし得るようにしなくてはならないかどうかということは、分けて考える必要があるし、まったく意味が異なるのです。
国民が知り得ないところで、「別班」のような組織が暴走することを容認するようなことがあってはならないし、そのためのシビリアンコントロールなのです。
まあ、ドラマごときで、そんな原則論を振りかざすこともないだろうといった醒めた意見をお持ちの方もおられると思いますし、私自身、ドラマそのものについては、「007」や「ミッションインポシブル」のように楽しめばいいと思ったりもするのですが、やはり時に非合法な活動を厭わないとされ、シビリアンコントロールから逸脱する存在と位置付けられている「別班」だけに、単なる娯楽作のような描き方はされないだろうし、そうあってはならないと思うようになったわけです。
実は、私なりに、あと2週間余り後にやって来るドラマのエンディングを予想したりもしていますが、どうかシビリアンコントロールの大切さをどこかで感じられるような結末であってほしいと、そんなことを思いながら、引き続き、「VIVANT」をわくわくと楽しみつつ、視聴して行きたいと思っています。
そして、ドラマがエンディングを迎えたら、あらためてこちらで取り上げてみるつもりです。
事件日記~遺産分割調停手続における最近の傾向
裁判所における手続というのは、法律の基本書とは結構違うところがあります。
なので、習うより慣れろで、実務の場数を踏むことも大切だったりするわけです。
もちろん、裁判官によるやり方の違いといったこともあって、裁判官が転勤で交代して進め方や、事件の争点の捉え方がガラッと変わることも、そんなに珍しいことではありません。
ですので、変な話、裁判官の対応に疑問を感じたり、正直、合わないなと感じるときは、心の中で「早く転勤してくれないかな」なんて思っていたりすることもあるわけです。
一方、個々の裁判官のやり方というよりは、裁判所内部で、この種の事件の手続は今後このように進めて行こうという方針が立てられた結果として裁判手続が変わったなと感じさせられることもこれまた少なくありません。
裁判も、時代にあわせてどんどん進化、変異していくのです。
最近、遺産分割調停事件で、そのような経験をしたので、ちょっと取り上げてみます。
遺産分割の案件では、私たちが整理の過程で特に心がけていることがあります。
遺産分割では、まず遺産の範囲を確定し、次に遺産の評価を行うなどして、遺産の総額を把握することが論理的には先行します。
そのうえで、遺産に対する取り分(相続分)を確定して行き(もちろん、その中で本来の相続分ではなく、特別受益や特別寄与などの調整的な要素があるか否かの検討を行うこともあります)、そこから、誰がどれを取得するかといった具体的な分配方法を決めていく流れになるのです。
弁護士として、このような流れを意識しておくことはとても大切です。
というのは、実際の遺産分割の相談では、相談者は、この不動産がほしいとか、この金融資産がほしいという話にったり、自分はこんなに貢献したとか、相手は生前にこんなにもらっているといった話になることが多いのですが、そうした各論部分に入る前に、上記の順序で事案を整理していかなければ、そもそも相談者の希望がかなえられるかどうかがきちんと見極められないし、方針も立てられないからです。
以上のお話は、私たち弁護士が遺産分割事件を扱う上で必要な論理的な思考プロセスなのですが、最近、複数の遺産分割調停の手続で、裁判所がこの思考の流れを積極的に取り入れ、それでもって手続を進めようとしていると感じるようになりました。
具体的にどういうことかといいますと、調停手続で、調停委員が、「遺産の範囲と遺産の評価を確定して、遺産の総額について双方が了解する」という手順にやたらとこだわっているという印象があります。
それ自体、考え方の順序としては正しいと思うのですが、実際の調停の場では、それが確定するまでは、ほかの話を受け付けないという態度に固執していたりするのです。
どうやら、それはたまたまということではなく、東京の家庭裁判所ではそのような方針で手続に臨むようになっているらしく、それが横浜の家庭裁判所にも波及しているのかもしれません。
実際、東京や大阪などの大規模庁での手続きの進め方が周辺、そして地方へと波及するということはよく見られるのですが、この遺産分割調停の進め方についてもそのような流れなのでしょう。
しかし、率直に言って、このやり方を強く推し進めることについては、間違いとまでは言いませんが、やや柔軟性に欠けるという気がしてなりません。
確かに、「遺産の評価を確定して、遺産の総額について双方が了解する」ことが論理的に先行することはそのとおりですが、実際の協議の中で、並行して、分け方の議論をしたり、相続分の調整に関する言い分をぶつけ合うことをやっておくことは、手続をスムーズに進めることに有用なケースはいくらでもあるからです。
また、遺産の総額が確定するまで解決方法に関する具体的な話し合いができないとなると、かえって手続が延び延びになってしまうこともあり、ケースによっては、一方だけが利益を得て他方が不当な不利益を受けることも決して少なくないのです(一方が遺産である不動産に居座っているような場合なんかがそうです)。
ですので、原則論はともかく、裁判所においても、ケースバイケースで柔軟な進行を心掛けてもらいたいと思ったりするわけです。
ただ、いずれにしても、弁護士としては、こうした実務の状況を理解しておくことが大切であることに変わりはありません。
何事も日々精進ですね。
日々雑感~原爆の日と「バーベンハイマー」
明日は世界で初めて核兵器が広島に投下された8月6日ですが、その直前にとんでもないニュースが入ってきました。
それは、「バービー」と「オッペンハイマー」というアメリカ映画の名前を組み合わせた「バーベンハイマー」なる造語に関するものです。
一部のSNSで、ミーム化というのだそうですが、バービーにきのこ雲を重ねた合成画像が出回り、あろうことか、「バービー」の制作会社であるワーナーブラザースの本体がその画像にハートの絵文字をつけ、「忘れられない夏になりそう」といったようなコメントまでつけたというのです。
今から78年前の広島と長崎への原爆投下により、何十万人もの人が命を奪われ、生き残った人の多くが放射線の後遺症に苦しみ、亡くなられて行きました。
私も地元の人間として、また弁護士として、被爆者の方々の苦しみを直接耳にしてきました。
ただ、私は被爆二世ですが、アメリカを憎むという気持ちはなく、核兵器を発明し、その核兵器を使い、あるいは保有することで、他国に圧力をかけることをいまだにやめようとしない人類の愚かさを嘆いているのです。
今回の問題についていえば、バービーにきのこ雲を重ねた合成画像を作った人間は無知で愚かな人なのだと思うのですが、それよりも、その馬鹿な合成画像に大手の映画会社が好意的な反応をしたことは、到底容認できません。
核兵器で世界を脅すような究極の瀬戸際外交が最後に世界に何をもたらすのか、ちょっと想像力を働かせればすぐにわかるはずだし、あのきのこ雲の下で多くの人が亡くなったり、苦しんで逃げまどったりしたのですから、よりによって、そのきのこ雲にハートマークをつけるなんてあり得ないし、人々に夢を与えるはずのエンタメの大手企業としてはあまりに無分別というほかないからです。謝罪して済むような問題ではありません。
また、今まさにリアルタイムで起きているウクライナに対する侵略でも、ロシアが核兵器の使用をちらつかせているため、欧米各国も及び腰の対応となっていて、2年半が経過しようとしているのに、いつまでも侵略が終わらないという状況からも明らかなとおり、人類がこの地球上で生き残るためには、核廃絶しかないというのが私の意見です。
現実には決して容易なことでないにしても、核廃絶という理想を捨ててはならないと、心からそう思っています。
そのことをみんなが真剣に考えるきっかけとするためにも、「バービー」の日本での封切には強く反対しますし、仮に封切られても、私は観に行かないし、周囲の人には観に行かないように働きかけて行こうと考えています。
広島、そして長崎の原爆の日を迎え、一人でも多くの人にそんな想いを共有してもらいたいし、核廃絶の理想を心に抱き、何らかの形で発信していただければと、そんなことを考えています。
日々雑感~宮崎駿監督が「君たちはどう生きるか」で伝えたかったこととは?
宮崎駿監督(以下、敬意を籠めつつ敬称略とします)の「君たちはどう生きるか」を公開初日の夜遅くに観てきました。
「未来少年コナン」のころからのファンで、宮崎駿の考え方や創造性に共感してきた私としては、引退を撤回して彼が制作に臨んだこの作品(まあ、引退撤回は今回が初めてではありませんが)は絶対に観ようと思っていたので、夜遅くではあったのですが、思い切って足を運んだ次第です。
というわけで、この作品について個人的な感想を述べてみたいと思います。
この作品については、事前情報がほとんどなかったこともありますが、実際に観た人の感想を見ても、「よくわからない」といったコメントも多いようです。
私も、正直、観終えた瞬間は、頭の中に、もやもやっとした感じがあって、消化しきれていないというか、いったい何を描きたかったのだろうか、伝えたかったのだろうか、さらにはエンターテインメントしてどうなのだろうかといったいくつものクエスチョンマークが頭の中を駆け巡っていました。
ただ、少し経ってから、映画のシーンをあれこれ回想しているうちに、ふと思いついたことがあります。
それは、「君たちはどう生きるか」の本が出てきた場面の意味についてです。
あまり書くとネタバレになるので気をつけますが、あの場面にはやはり特別な意味があったのではと思うようになったのです。
映画の主人公である真人(まひと)は、お母さんの死を心情的に引きずっており、心の中に「虚無」が潜んでいる少年でした(この「虚無」は「風の谷のナウシカ」の漫画版でもしばしば強調されています)。
実際、そこまでの彼の振る舞いは、何処か醒めているというか、諦めているというか、とにかく、人と深く関わることを拒絶し、殻に閉じこもっていました。
しかし、「君たちはどう生きるか」という本を手に取って読み、そのあと、彼は涙を流すのですが、そこから彼は明らかに変わり始めます。
映画の中では淡々と描かれていて、特に言葉で語られるようなことはないので、何気に見過ごしていたのですが、あとで全体を振り返ると、やはりあの場面こそが転換点だったと思うのです。
彼がその本を手に取って読んだのは、ある理由でその本が彼にとって特別の価値があったからですが、とにかく、彼はその本を読んでからほどなく異世界に飛び込み、そこでいろいろなものに遭遇していく中で、段々と心の中の「虚無」を振り払って、周りにいるものや世界そのものを救うために抗う人へと成長し始めるのです。
もっとも、この異世界の冒険というのが、これまでの宮崎駿ワールドの既視感満載の、何とも摩訶不思議なファンタジーで、未だによくわからないところがあります。
特に、主人公と一緒に異世界で戦うヒミですが、彼女がなぜ登場したのかすら未だによくわかりませんし、ほかの登場人物や塔の意味なんかについてもわからないところがいっぱいあります。
いずれ、このあたりが理解できたら、またこの映画の評価はさらに変わるような気もしていますが、そのあたりの「深さ」というか「わかりにくさ」もまた、宮崎駿たる所以なのでしょう。
ただ、何にせよ、「君たちはどう生きるか」の本を読む前の主人公と読んだ後の主人公の「生き方」「生きる姿勢」の変化こそが、宮崎駿が描きたかった重要なメッセージに繋がっているという気がしてなりません。
さらにそのことについて考えてみました。
本作品の数少ない事前情報の一つだったのですが、宮崎駿自身、この映画のタイトルとなっている「君たちはどう生きるか」という吉野源三郎の著作を若いころに読んですごく影響を受けたのだそうです。
もしかすると、私にとってのジョンレノンのような存在かもしれませんが、人生においては、生き方に影響を与えるような何かは誰にでも起こり得るわけで、宮崎駿にとっては、それが「君たちはどう生きるか」だったのかもしれません。
吉野源三郎という方は、戦中戦後を通じてずっと反戦平和を訴え続けた人物として知られており、宮崎駿の生き方や価値観と相通じるところがあるように感じますが、とすると、主人公の真人は、宮崎駿が自身を投影した存在とも捉えられるわけで、彼自身の自伝的な意味合いがあるようにも思えます。
ただ、それ以上に思ったことは、宮崎駿は、この作品を誰に観てほしいのだろうかということについてです。
彼は、映画を創る時、よく、それを誰に観てほしいかという話をしていました。
彼のこれまでのそうした発言からしても、引退を撤回してまで創ったこの映画においてもそんな思いを巡らせながら制作に臨んだに違いないと思うのです。
そして、彼がこの映画を観てほしいと思った相手ですが、とりわけ迷える10代の人たちにこそ、この映画のメッセージを届けたかったのではないかという気がするのです。
実際、本作で主人公が少年だということはやはり特別な意味があるように思います。
というのは、今の日本は、特に若い世代にとって、将来に向けて夢や希望が持てない、閉塞感に満ちた、不公平で不条理な社会だからです。
金や権力を持ち、あるいはそれらにすり寄ってうまく立ち回った人間だけがいい思いをし、大手を振って歩いている、それが今の日本であり、その一方で、誠実に生きたくとも、未来に夢を描けない若者の自殺が増え続けているのが現実です。
そんな若者に対して、「人生を変えるきっかけになるものは確かに存在するのだ」ということを伝えたいのではないかと、そんな気がするのです。
不条理な現実を受け入れ、不満や不安を抱きつつ、妥協を重ねるであるとか、あるいは、現実や将来を悲観して死を選ぶ若者の心には「虚無」が潜み、じわじわと蔓延っているような気がしてなりません。
そうした心の中の「虚無」を振り払い、前を向いて、何か大切なもののために抗い、道を切り開いて行く、そんな生き方を見つけるためには、何かのきっかけが必要だけれど、それはすぐそばにあるのだと、そんなことを訴えているのではないでしょうか。
かつて少年だった宮崎駿にとっては、「自分にとってのきっかけは『君たちはどう生きるか』だったんだよ。だから君も何か、自分を変えるきっかけを見つけて」と、感受性豊かで、時に絶望して死を選んでしまいかねない若い世代の人たちに、そう伝えたかったに違いないとそう思うのです。
この映画はすごく内省的なところもあり、描かれている異世界も、もしかしたら宮崎駿の頭の中の出来事なのかもしれませんが、そこで訴えているメッセージは普遍的なものだと感じます。
賛否両論ある作品ですが、映画の中で起承転結が完結してしまう作品よりも、観終わった後に、それぞれの視点で深く考察し、検証していくことができることの面白さという意味でこの映画に優るものはないのではないかというのが私の評価です。
ですので、観終わった直後の評価は60点くらいだったのですが、いろいろと思い返した今の評価は90点に跳ね上がっています。
未観賞の方は、ぜひ身近な友人と一緒に観て、感想を語り合い、明日への糧にしていただければと思います。
日々雑感~「不貞」と「不倫」の違いとメディアの取り上げ方に対する疑問
芸能ニュースとかはあまり見ないのですが、しばしば取り上げられる芸能人の「不倫」絡みのニュース(正直、個人的にはこのようなワイドショー的な話題をニュースと呼ぶことにも抵抗がありますが)を見るにつけ、弁護士としては、その曖昧な言葉の使い方とその報じられ方に疑問や違和感を持つことがしばしばあります。
広末涼子さんの「不倫」の件が大きく取り上げ続けられることへの疑問もあったりしますので、ちょっと取り上げてみたいと思います。
そもそも、弁護士は、実務において「不倫」という言葉を普段使ったりはしません。
法律的には、離婚原因となったり慰謝料請求の根拠となるのは、「貞操義務」に違反すること、つまりは「不貞」(不貞行為、不貞関係)であり、それを「不倫」と表現することはないからです。
一方の「不倫」ですが、こちらは漠然とした意味合いで使われているところがあります。
本来、不倫とは、「倫理」に反するという意味から来ているはずなので、夫婦関係、男女関係に限らない用語ともいえるのでしょうが、現実には、「浮気」がいつの間にか「不倫」と言い換えられるようになったような印象があります。
「不倫は文化だ」といった芸能人がいましたが、そのあたりからよく使われるようになったのかもしれません。
しかし、芸能ニュースで使われる「不倫」と、法律実務における「不貞」には明らかにより大きな違いがあります。
というのは、夫婦関係が破綻した状況での男女関係は、法律実務においては「不貞にはあたらない」と評価されるのに対し、芸能ニュースを見ていると、そのようなことはお構いなしに、婚姻関係にある有名人が、別の異性と深い関係になったことが判明した時点で、「不倫」と表現してバッシングが開始されるからです。
ですが、メディアで取り上げられる「不倫」なるものが、実際には夫婦関係破綻後に生じたということで「不貞にあたらない」との評価を受けるならば民法上は違法ではないわけですが(当然ながら刑法上の犯罪でもありません)、実際の取り上げられ方は、そんな事情の違いなんてそっちのけになっており、今のワイドショー、ネット情報のかなりの部分は、法的に何ら違法でないか、その可能性があるものを、まるで悪事のように報じている印象で、正直、強烈な違和感を覚えます。
あとでも触れますが、いったん「不倫」と報じられた側のダメージの大きさは計り知れないからなおさらです。
もちろん、「婚姻関係中に他の異性と深い関係になることは倫理に反する」という価値観に基づくものだという反論もあるかもしれませんが、それは価値観の押し付けであり、それでもって公開の場所でつるし上げたり、個人情報をかき集めて垂れ流すことが正当化されることはあり得ないというのが私の意見です。
もちろん、法的に違法なものしかメディアが取り上げてはいけないとまでは言いませんが、仮に違法とまではいえないものを扱う場合の指標、メルクマールは、「多くの人に知ってもらうべき公益性があるか否か」そして、「相当高いレベルの内容の真実性」であるべきで、多くの場合、芸能人の「不倫」の報道にそもそも「公益性」なんてないでしょう。
ちょうど、広末さんの「不倫」は、ジャニーズの例の問題が取り沙汰されていたところに出て来たもので、それにより、ジャニーズの問題の扱いが相対的に小さくなっているように感じますが、両者は、問題の本質、公益性という点からして、およそ次元が異なりますし、その対比からしても、特に大手メディアの扱いの不均衡さは際立っていると感じます。
私が、芸能人のこの種の不倫問題を原則としてメディアが取り上げるべきでないと考えるもう一つの理由は、家庭内の問題について、玉石混交の情報で根掘り葉掘り穿り回すことで家族を含め、多くの人が傷ついてしまうことがあるからであり、その結果、取り返しのつかない事態となっても、「みんなでやっているせいもあって」誰も責任を取らないで済むという恐るべき現実があるからです。
まさに「横断歩道 みんなで渡ればなんとやら」状態ともいえます。
実際、寄ってたかってではない段階で起きたことですが、市川猿之助さんのご両親の死亡という非常に痛ましい最悪の結果については、あらためてメディアの影響の大きさ、恐ろしさを実感させるものです。
また、広末さんの報道を見ても、すでにいろんな話が出て来ています。
その中には、お子さんたちの情報も含まれていますし、夫婦関係が良好とは言えず、離婚の話が出たり、すでに別居に入っていたことは、広末さんの夫の側も認めています。
さらには、広末さんの夫の「不倫」や「暴力」に関する情報も流れています。
このあたりの真偽については不明なところもありますが、もし、すでに相当期間別居して「破綻」と評価される状況になっていれば、「不貞」とはならない可能性が高いうえ、仮に広末さんが夫の不貞や暴力に苦しんでいて、不倫相手とされる男性が、苦しんでいる彼女を支えてあげようとしていたというのであれば、そして子供たちもその男性を慕っていて一定の関係性が構築されていたような場合には全然見方が変わって来ることになります。
もちろん、私は、それが真実だと言っているわけではなく、そうした様々な可能性のある、しかも極めてナイーブかつドメスティックな問題に、勝手に色づけをして「みんなで渡れば~」の体でバッシングしているという現実こそが異常であり、間違っているのではないかと申し上げたいのです。
実際、弁護士として離婚事件に取り組んでいると、夫婦関係の破綻は、不貞や暴力だけでなく、モラハラであるとか、性の不一致、さらには配偶者の親との不和、子育ての方針の違いなど、本当にいろんな事情によって起きており、破綻に至る本当の経緯はおよそ外からはわからないことの方が多いのが実態です。
それでもって、偏った情報で決めつけられ、さらに憶測で非難されたことで本人や周囲が受けた被害を後になって回復することは不可能といっても過言ではありません。
それと、広末さんに限らず、「不倫」した芸能人をバッシングする記事やコメントを見ていると、「幼い子供がいるのに」といったものも少なくありませんが、「子供がいる」ということと「どちらに非があるか」ということは別のことです。
この点、実際の芸能ニュースやネットの記事、コメントなどを見ると、「一番の被害者は子供たちだ」という論調もありますが、そもそもメディアが大騒ぎすることで子供たちがより傷つくわけだから、そのような発言自体、偽善であり、詭弁であると感じます。
で、この問題に対する私の結論ですが、テレビもネットも週刊誌も、芸能人の不倫ネタを扱うこと自体、すぐにやめるべきだと思います。
夫婦関係がうまく行かなくなり、他の異性との男女関係に陥ったり、離婚したりということは、ごく普通に起きることですし、犯罪でも何でもないわけです。
それを、当事者でもなく、家庭内のことをよく知りもしない人間が、偏った情報や憶測でもって、メディアやネットで一方的に批判するなんて、本当に余計なお世話だし、そちらの方が犯罪的とすらいえなくもありません。
実際、もし、今度の広末さんの件が、夫婦関係破綻後であるとか、あるいは破綻の原因が夫の不貞や暴力などの何らかの違法行為によるものだったとしたら、広末さんのCMや映画出演などの仕事を失わせるきっかけとなった一連の報道は、違法な「業務妨害」と評価されてもおかしくないのではとすら思うのですが、もしそう評価された場合、生じた莫大な損害についてはいったい誰が責任を取るのでしょうか。
コンプラ社会と言われるようになって久しいですが、この芸能スキャンダルの領域においては、「コンプライアンス」が全然守られていないように感じます。
付言すると、テレビや文春や写真週刊誌等で取り上げることの弊害は別の意味でも極めて大きいように思います。
仮にネットで誰かが個人情報を暴露して誹謗した場合には名誉棄損が容易に成立するのに、先行してメディアが取り上げてしまっている場合、その後のネット記事は事実上不問になってしまうからです(実際、ネットのいわゆる「まとめ記事」の類はあちこちの既出の情報を引用するだけのものが多いでしょうから、なおさらです)。
メディア関係者は、いい加減目を覚まして、「視聴者が見たがるであろうもの」を追っかけまわすのではなく、メディアの責任、影響力の大きさを自覚し、本当に扱うべき公益性の高い事件を丁寧に掘り下げる姿勢に立ち戻るべきです。
そして、そのためには、視聴者側の意識改革の方がより大切で、このような興味本位で無責任な情報には背を向けて、それを扱うメディアやネットで情報を垂れ流す側に対して、それを非難するなど断固たる姿勢を持つことこそが必要なのだと強く思います。