事務所トピックス

日々雑感~交通事故事件の受任が増えている中で起きたある出来事

弁護士 折本 和司

最近、交通事故事件の受任が増えています。

数えてみたところ、訴訟になっている2件を含め、現在進行形のものは7件ほどあります。

元々、交通事故は、医療に関する知見が役に立つこともあって、コンスタントに扱ってはいるのですが、今年になってばたばたと増えてきました。

もちろん、加害者側には通常保険会社がついておりますので、私の場合、基本は被害者側の代理人ということになります(任意保険に入っていない場合に加害者側を引き受けることもあります)。

というわけで、交通事故事件のお話をするのかとお思いかもしれませんが、本日のところはそうではありません。

実は、私自身が交通事故に遭ってしまいました。

といっても、怪我をしたわけではないのですが、あらためて事故の恐ろしさというか、紙一重なのだということを実感しましたので、事故のことを振り返ってお話したいと思います。

 

実は、ある日の午前中、私は片側2車線の主要幹線道路の左側走行車線を走っていました。

見通しの良い直線道路でしたので、かなり先の信号が青であることを確認しながら、直進していたのです。

右側の追い越し車線は、その先で右折する車が多いこともあって、渋滞気味となっていました。

一方、私の前方ではバイクが走っていましたが、かなりスピードを出していて、どんどん遠ざかって行きます。

そして、私の車が、前方の青信号の交差点に差し掛かろうとしたその時のことでした。

いきなり右側から年配の男性がひょいと現れたのです。

右側の追い越し車線が詰まっているので、横断歩道の手前で車が停止していたのですが、その車の前方を、歩行者信号が赤であるにもかかわらず、横切って来たわけです。

私はびっくりしてブレーキを踏みました。

幸いなことに元々あまりスピードを出していなかったので、その男性の1メートルちょっと手前で私の車は止まりました。

ところが、その直後、ドンという衝撃が後ろから襲います。

私の後方を走っていたバイクが止まれずに、転倒しながら私の車にぶつかって来たのです。

サイドミラー越しに、転倒しているバイクが目に入りました。

一方、前方に目をやると赤信号無視の男性がそのまま横断歩道を渡り切ろうとしています。

私は思わず「危ないじゃないか。何やってるんだ」と怒鳴りました。

すると、その男性は、「俺は障害者だ」と言い返してきました。

さすがにカチンと来て、「そんなことは関係ない。赤信号を渡っちゃだめだろ」と言ったら相手の男性は黙りました。

そこから車を脇に寄せ、バイクの男性に保険会社に連絡を取ってもらい、こちらは警察に連絡です。

すると、信号無視の男性は現場を立ち去ろうとしています。

急いで呼び止め、住所と名前を確認しつつ、赤信号を渡ったことを認めさせ、スマホで録音を取りました。

 

しばらくすると、警察官が来て、双方から事情を聴きます。

驚いたのは、赤信号無視の男性については、参考人扱いで、非があるのは車間距離を十分に取っていなかったバイクの運転手だとあっさり断定したことです。

こちらも弁護士ですから、事件として扱うことになれば、そうした法的な評価をするかもしれないとは思うのですが、一般常識的には、どう考えても主要幹線道路で赤信号を無視した歩行者が悪いに決まっているわけです。

こう言ってはなんですが、結構スピードを出している車も多い場所ですから、もしそうした車だったら人身事故になっていたでしょうし、死亡事故になっていたかもしれません。

そう考えると、非常に腹立たしいし、自殺行為に等しいくらい危険な行為なわけです。

それでも、人身事故になっていれば、業務上過失致死傷で法的責任を問われるのは運転している側ということになります。

結果は物損のみで事なきを得ましたが、つくづく、車の運転には気を付けないといけない、いえ、どんなに気を付けてもとばっちりのように事故の加害者にされてしまうことだってある、そうした恐ろしさを実感しました。

 

最後に、事故に遭わないための私の心がけですが、まずは車間距離、次に、先頭を走っている時のスピード制御、道路外から道路に出る時や狭い道、四つ角ではとりわけ慎重な運転を心がけること、そして、「もしかすると人が飛び出してくるかも」「車が強引に曲がって来るかも」という危険予測を常に心がけることといったあたりです。

今回は、危険予測が及びませんでしたが、先頭を走っている時のスピード制御が効を奏して人身事故に至らないで済みました。

運転される方々はくれぐれもお気を付けください。

 

 

 

2017年03月21日 > トピックス, 日々雑感

事件日記~個人再生事件が続いています

葵法律事務所

〇月✕日

前にもちょっと書いたとおり、私たちの事務所では、ここのところ、なぜか続けて個人再生の事件を受任しており、そのうち、すでに申立済みの事件については、ほどなく再生計画が認可される見込みとなっていますが、このたび、約半年ほどの準備を経て、新たにもう1件の申立を行いました。

 

前にもちょっと書きましたが、個人再生とは民事再生法の中の一制度で、個人事業者や給与生活者のための手続となります。

この制度ができたことによって、多重債務を抱えて相談に来られる方にとっての選択肢の幅が広がりました。

それまでは破産か任意整理(個々の債権者との任意の交渉による解決)という選択だったのですが、破産だと負債も消える代わり、不動産などの資産も失うことになるのが通常ですし、任意整理では負債そのものは減らないことも多く、十分な返済資力がない方にとっては経済的に厳しい選択となります。

その点、個人再生であれば、条件にもよりますが、負債を圧縮しつつ、不動産を残すことが可能になるわけで、築き上げた生活を維持したいと希望される方にとっての有力な選択肢となるわけです。

もちろん、個人再生が認められるための要件の検討が必要となりますし、どの程度メリットがあるかを把握するために清算価値チェックシートなるものを作成しなくてはなりませんから、実際の手続の利用については、一定の経験を持つ弁護士によるそれなりの検討と準備期間が必要となります。

それと、破産との違いでいうと、破産の場合は、「負債を支払うことができない」ということを手続きの中で明らかにしていかないといけませんが、個人再生の場合は、「そのままの負債を支払うことは無理だけれど、ルールに従って圧縮された負債なら返済できるという見通しがある」ということを裁判所に示していかなければなりません。

個人再生は、負債が増えて経済的には厳しい状況にあるけれど、不動産を何とか残していきたいと希望をお持ちの方にとっては、一筋の光明ともいえる制度ですが、その分、経済的なハードルは高くなります。

 

ところで、実際に私たちのところに相談に見える方は、必ずしも、最初から個人再生を念頭に置いておられるとは限りません。

いろいろお話を伺う中で、その方にとっての最も良い選択が個人再生手続であろうという結論になって行くというパターンもあるわけです。

また、今後の収入見通しが不確定であったりする場合もあり、準備を進めながら、個人再生の適用条件を満たしていくように努力をしていただかなければならないということもあります。

そういう意味からすると、個人再生は非常に動的な手続であるともいえるわけです。

 

個人再生手続が視野に入るような事例の場合、相談、依頼を受ける弁護士にとっては、選択肢が増えた分、判断に迷うケースも増えていますし、それぞれの手続きの内容や得失に関する説明に時間を取られる大変さもありますが、家族のために不動産を残してあげられるメリットのある個人再生が利用できれば、弁護士にとっても、良い仕事ができたという満足感もより大きなものがあります。

自宅不動産を手放したくないけれど、債務超過で困っている方がおられましたら、諦めずに、ぜひ個人再生も視野に入れた検討をされてみるとよいと思います。

 

なお、最初に書いた、近々計画が認可される見通しの事件については、手続中にちょっと珍しいけれど今後に役立ちそうな経験もしましたので、いずれまた取り上げてみたいと思います。

2017年03月02日 > トピックス, 事件日記

医療事件日記~ドクトルマンボウの本当の死因と解剖実施の必要性

葵法律事務所

〇月✕日

友人の弁護士から相談を受け、調査段階で少しお手伝いをしていた医療事件が無事解決の運びとなったとの連絡が来ました。

その事件は、当初、ある病気で入院し、いったん容態が回復した後、病室で急変したというもので、うっかりモニターの電源を切ってしまっていたため。病院側が急変に気付くのが遅れ、患者が死亡されたというものでした。

ただ、その事故では解剖が実施されなかったため、死因が特定できず、元々の疾病で死亡された可能性も残ることから、モニター電源が切れてなかったとしても救命できたかどうかについてなかなか確証が得られないという状況に陥っていたのです。

相談を受けて、紹介した医師の方から有益な意見がうかがえ、また鑑定意見書を書いていただけたこともあって、訴訟に踏み切り、このたび、死亡についてある程度の責任を認めるレベルの解決に達することができたということでした。

和解内容をうかがいましたが、解剖を実施しておらず、死に至るまでの機序について本当のところがわからない事件としてみると、かなり良い解決になっているのではないかと思いましたし、相談を受け、多少なりお手伝いした事件でしたので、ちょっとホッとした次第です。

ただ、それでも、やっぱり解剖をしておけばよかったのになあという思いは残るわけです。

解決の水準ということもありますが、真相がより明らかになった可能性は高かったでしょうし、真相解明のための苦労も相当違って来たはずだからです。

その方の事故の場合、なぜ解剖に至らなかったかはよくわかりませんが、現実に医療事故の相談を受ける立場から振り返ってみると、ミスをした医療者側に、何とか解剖をさせないように説得しようという心理が働き、そうした説得の結果、解剖がなされないままで終わってしまうケースも決して少なくないように思いますし、現にそうした印象を抱かざるを得ないことは時折あるのです。

 

少し前のお話になりますが、戦後を代表する作家として知られるドクトルマンボウこと北杜夫さんが亡くなられた時のことが後になって報道されています。

北杜夫さんといえば、戦後の日本文学史において、軽妙な文体で、ある時期、狐狸庵先生こと遠藤周作さんと人気を二分した作家です。

その北杜夫さんが亡くなってしばらくして、当時医師から説明された死因が嘘だったことが明らかになります。

その時のニュースによりますと、死亡時には、「腸閉塞から敗血症性ショックになって死亡した」という説明だったのが、後になって、「吐物誤嚥による窒息死」が本当の死因であることが判明した、つまり死亡時の説明が嘘だったことがわかったというのです。

どうしてそのようなことが表に出たのかはわかりませんが、もしかしたら内部告発のようなことがあったのかもしれません。

いずれにしても、腸閉塞から敗血症性ショックになってしまった場合よりは、吐物誤嚥による窒息死であった場合の方が、ケースにもよりますが、医療側の責任が問われる可能性は高くなるように思われますので、病院側は、ご遺族からの責任追及を恐れて死因について嘘の説明をしていたのかもしれません。

ただ、このニュースでより注視すべきことは、解剖に関する病院側の対応だと思います。

報道によれば、解剖を実施するかどうかの話し合いの際に、医師が、「解剖をやるとすぐに帰れなくなる。ガッと開けるから見栄えのこともある」などと説明したため、遺族は解剖を断念したという経緯があったそうです。

もちろん、解剖をやっていれば、吐物誤嚥による窒息死であることはすぐに明らかになりますので、死因の説明が嘘である以上、それがばれることを恐れての説得であった可能性が高いように思われます。

医療事件では、過失だけでなく、その過失のせいで悪い結果が生じたかどうか、つまり因果関係の方がより重要になって来るケースは少なくありませんが、死亡事故の場合、そのための重要な情報が解剖所見であり、それゆえ、死亡事故の場合、解剖を実施しないと、どうして亡くなられたのかがわからず、責任を問えないで終わってしまうことになりかねません。

北杜夫さんの場合のように、後になって真相が表に出ることはほとんどないことですので、死亡事故で死因とかに納得できないような場合には、大切な家族を亡くされたご遺族にとっては難しい選択かもしれませんが、解剖をして死に至る機序を確認しておくことが真相究明のために必要ことだということを申し上げておきたいと思います。

2017年02月15日 > トピックス, 医療事件日記

医療事件日記~電子カルテの証拠保全

葵法律事務所

〇月✕日

昨年中に申し立てていた医療事件の証拠保全期日がやって来ました。

前にも述べましたとおり、医療事件の証拠収集、調査においてカルテ類の入手は必要不可欠な手順なのですが、事件の内容がよほどシンプルなものでない限り、多少の費用が掛かっても、裁判所の証拠保全手続でカルテ類の確保に努めることが望ましいとはいえます。

 

ところで、今回の証拠保全においては、私たちは相手方の病院が電子カルテを導入していることを把握していました。

最近は、ある程度の規模の病院になると、電子カルテを導入していることがかなり多くなっています。

ただ、電子カルテということになると、証拠保全期日における段取りや留意点も、以前のやり方と大きく異なって来ています。

前は、代理人は記録と補助のカメラくらいを用意しておけばよかったのですが、電子カルテとなると、パソコンやDVDドライブ、ブランクのCD、DVDの持参は必須になります。

その場で、画像、映像を確認したり、病院側にダビングしてもらうこともあるからです。

さらに証拠保全の手続中のやりとりでは、かなり高い緊張感で臨まないといけなくなっています。

変な言い方になりますが、ボヤーッと病院任せにしたり、裁判所任せにしたりしていると、あっという間に終わってしまいます。

こちらが意識的に取り組まないと、保全すべき重要な情報が出て来ないままで終了なんてことになってしまうので、裁判所や病院の担当者に対してあれこれ口を挟み、パソコンの画面の向こう側に隠れている情報を引きずり出さなくてはならないのです。

ですので、以前の紙やフィルムベースで、同行した写真屋さんにパシャパシャ写真を撮ってもらう証拠保全に比べ、時間は短いのですが、緊張感を持って、パソコンの画面と向き合い、画面操作をする職員に質問をぶつけて行かないとならないので、終わった時は、本当にぐったりしてしまいます。

 

もう一つ、今回の病院の場合、どうやら自前の電子カルテを構築しているらしいという事前情報がありました(どこの電子カルテを導入しているかを調べることは、電子カルテを保全する場合に心がけておいた方がいい準備行為の一つともいえます)。

日本国内の電子カルテの最大手は、シェア的には富士通がトップだそうで、実際、証拠保全に行ってみると、わりと見覚えのある電子カルテの形式に出くわしたりするのですが、今回の病院の電子カルテが自前のものだとすると、かなり注意をしなくてはならないということもあり、正直、普段よりも緊張して手続に臨んだわけです。

電子カルテの保全については、更新履歴、更新前情報を保全するとか、スキャンで取り込んだ紙ベースのデータ(たとえば、前医からの診療情報提供書や説明同意書の類なんかがそうです)がある場合、紙ベースの原本を保全するとか、まあ、いろいろと気をつけなければならないポイントがありますが、独自の電子カルテだとすると、そのあたりの確認がすんなりできるかということもあって、病院側や、場合によっては裁判所とも揉めるという事態が起きるなんてこともあります(よくわかってないのに、仕切りたがる裁判官が相手となればなおさらです)。

 

手続を始めてみると、事前情報どおり、今回の病院は独自の電子カルテを構築していました。

しかし、予期に反して、その病院の電子カルテは、わりとオーソドックスな作りになっていて、こちらが求めた資料はさほど揉めることもなくすんなり出て来ました。

事故の過失はかなり重大だし、事故発生後に事故隠し的な対応があったので、そうしたことからも心配な点はあったのですが、電子カルテについては、病院内の連携も含めて、とても良く出来ているように思いました。

私たちもいろいろと電子カルテを見ていますが、大手の業者の作るものとそん色ないのではないかとさえ思いました(まあ、日常の医療行為の場面での使い勝手についてはわかりませんが)。

ともあれ、現場でパソコンの画面と向き合っていろいろと検証を重ねると、どうしても漏れているデータが結構出て来るわけで、こちらの質問や要求に対して、嫌な顔をされることなく丁寧に対応してくださった病院の職員の方々には感謝申し上げたいと思いました。

 

で、実は、近々、もう一件、証拠保全期日が入っています。

何かあれば、またご報告したいと思います。

2017年02月06日 > トピックス, 医療事件日記

日々雑感~「この世界の片隅に」を観ましたPART2

弁護士 折本 和司

前回の記事では、広島出身者であること等、個人的なこととの繋がりといったあたりで、この映画の感想を述べましたが、今回は、純粋にこの映画の素晴らしさについて述べてみたいと思います。

 

まず、この映画が素晴らしいのは、ストレートに戦争を描いている映画ではなく、一人のごく普通の女性を中心とした市井の人々の日常を丁寧に描いていて、それ自体が十分に楽しめる作品であるということと、水彩画のようなタッチでそうした日常を描いている、どこかほんわかした作品でありながら、観ている内にその世界に引き込まれ、戦争の不条理さ、知らず知らずの内に戦争が日常生活に入り込んで来ることの恐ろしさが観る側にリアルに伝わって来るということです。

しかも、そうした戦争の不条理さ、悲惨さを描いている映画なのに、通常、その種の映画で感じられる押しつけがましさがまったく感じられないのは、もはや奇跡といえるかもしれません(そのあたりは、主人公の声を演じる能年玲奈改めのんの「演技力」に拠るところも大きいのかもしれませんが)。

 

ところで、この映画を観終わった時にまず思ったことは、この映画は、今の時代に生きる日本中、いえ世界中の人すべてが観るべき映画ではないかということでした。

まず、舞台は今から70年も前の戦争中の日本ですが、今も世界のあちこちで同じことが起きており、決して過去の出来事をなぞっただけの作品ではありません。

私自身、今朝のニュース番組で、「この世界の片隅に」とよく似た、空から大量の爆弾が投下される映像を観ました。

その下には、「この世界の片隅に」と同じく、ごく普通の生活を営む人々のつつましい暮らしがあるはずなのに、爆弾投下の映像を観ても、まるでゲームか映画の映像のように何も感じなくなっている、そんな自分に愕然とさせられます。

「この世界の片隅に」は、私たちにとって内なる想像力なるものがいかに大切かを気づかせてくれます。

 

しかし、私自身としては、そこからさらに思うことがありました。

実は、この作品で作者が最も伝えたいメッセージとは、私たち国民が今起きていることについて無関心でいることの恐ろしさ、愚かさなのではないかということです。

この映画では、ごく普通の平穏な日常の中に知らず知らずの内に戦争が入り込んで来て、生活が破壊される様が丁寧に描かれていますが、それが誰の目にも見えるようになるときは、否応なく戦争に巻き込まれ、大切なものが奪われ、もはや取り返しがつかなくなっています。

この映画の主人公は、終戦の玉音放送を聞き終わった後に、慟哭します。

「まだ戦えるのになぜ?」といったようなセリフでした。

このシーンで私が思ったのは、政府の言うことを鵜呑みにして、無知、無関心でいると、いつか、そうした状況に追い込まれてしまう、後になって悔やんでももう遅いのだということでした。

映画では最後に救いがあり、ホッと前向きな気持ちにさせてくれますが、周辺諸国との緊張を高め、集団的自衛権の行使を違憲ではないと強弁して軍事同盟関係を強化し、情報統制を強めようとする今の日本政府のスタンスを見るにつけ、現実の未来はそんな楽観的な結末ではないのではないかと思わざるを得ません。

また、トランプ政権の誕生に象徴されるように今の世界はどんどん内向きになっています。

しかしながら、偏狭なナショナリズムが台頭するということは、国際社会において自国の利益の追及が優先される傾向が強まるという事態を招くことは必定であり、大国が自国のエゴをぶつけ合うということが続けば、戦争の危機は容赦なく高まります。

ぶっちゃけていえば、トランプやプーチンのような人間が核ミサイルのボタンを押す権力を持ってしまっているわけです。

叡智をもって避けられるはずの戦争(殺し合い)はあるはずなのに、今の世界、日本は逆方向に突き進もうとしている、そんな気がしてなりません。

だから、立ち止って考えることの大切さを訴えてくれている、「この世界の片隅に」とはそんな映画なのではないかというのが、私の感想なのです。

もちろん、こうした捉え方は、私個人のもので、もしかすると作者の意図するところではないのかもしれません。

しかし、少なくとも、この映画は、観終わった後、私たちに、そこから何を考えるかを委ね、突きつけている、そんな作品なのだと思うのです。

 

またまた長くなったので、このお話はPART3に続きます。

2017年01月22日 > トピックス, 日々雑感
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